人物

ハンムラビ

Hammurabi
BC1810年頃 – BC1750年頃(享年60・推定)
バビロン第1王朝重要度 5

概要

メソポタミアを統一し、法を石碑に刻んで公開した。条文は282条に及ぶ。

関わったできごと(1)

ハンムラビ法典BC1754年頃 · 制定

本文

バビロンの王。生まれた年は紀元前1810年頃とされ、在位はおよそ紀元前1792年から前1750年までとするのが一般的である。古代メソポタミアの年代には、学者によって数十年から百年ほどずれる複数の説があり、これはそのうち最も広く使われる説による。父のシン・ムバッリトから王位を継いだ。

ハンムラビ法典碑の上部(浮彫)
ハンムラビ法典碑の上部(浮彫)Wikimedia Commons Luestling · Public domain

即位したときは、メソポタミアの小国の一つだった。バビロンはユーフラテス川の中流にある都市で、南にはラルサの王リム・シン、東にはエシュヌンナ、北西にはマリ、そして北にはアッシリアのシャムシ・アダド1世がいた。とくにシャムシ・アダドは北メソポタミアの広い地域を従えた強大な王で、その存命中、ハンムラビは従属に近い立場にあったと考えられている。

当時の力関係を伝える有名な手紙が、マリの王宮から見つかった粘土板の中にある。単独で強い王はいない、バビロンのハンムラビには10人から15人の王が従っており、ラルサのリム・シンにも同じほどが従っている、と書かれている。王たちが同盟を組み替えながら、互いをうかがっていた時代だった。

ハンムラビ法典の石碑に刻まれた浮彫(ルーヴル美術館)
ハンムラビ法典の石碑に刻まれた浮彫(ルーヴル美術館)Wikimedia Commons Mbzt · CC BY 3.0

30年、周囲と同盟しては裏切り、少しずつ勢力を広げた。治世の前半は、運河を掘り、城壁を固め、神殿を建てることに力を注いでいる。シャムシ・アダドが死んでアッシリアの勢力が崩れると、動き始めた。東方の大国エラムの侵攻を周囲の王たちと組んで退け、続いて長年のライバルだったラルサを攻め、在位30年目頃にリム・シンを降した。かつての同盟者だったマリの王ジムリ・リムも数年後に攻め、マリの町を破壊した。最終的にメソポタミア全域を制する。

征服した土地は、バビロンから送られた役人が治めた。ハンムラビが南の役人にあてて送った手紙が数多く残っていて、運河の浚渫、土地の割り当て、役人の不正の訴えまで、細かな指示を自ら出していたことが分かる。大きな王国を、王の手紙と役人の報告でつないでいた。

治世の終わり近くに、法典を石柱に刻んで公開した(ハンムラビ法典)。黒い玄武岩の石碑で、高さは2メートルを超える。正確な楔形文字(楔形文字の成立)で、前文、条文、後文が刻まれている。条文は282条。ただしこの番号は近代の研究者が付けたもので、石碑の一部は削り取られていて、他の写本から補われている。

ハンムラビ法典に関わる図版:P1050763 Louvre code Hammurabi face rwk
ハンムラビ法典Wikimedia Commons Mbzt · CC BY 3.0

碑の上部に、王が玉座の太陽神シャマシュの前に立ち、王権の象徴を受け取る場面が彫られている。シャマシュは正義をつかさどる神だった。法は神から授かったという建前になる。

条文は、具体的な事例を「もし〜ならば、〜とする」の形で並べる。商売の契約、借金の利息、医者の報酬と過失、建物が崩れたときの大工の責任、結婚と離婚、相続、盗み、殺人。家が崩れて家主が死ねば、建てた大工が死刑になる、という条文もある。

ハンムラビ法典碑の序文部分(ルーヴル美術館)
ハンムラビ法典碑の序文部分(ルーヴル美術館)Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

条文は身分によって扱いが違う。自由人の目を潰せば目を潰されるが、身分の低い者の目なら銀で償い、他人の奴隷の目なら、その奴隷の値の半分を払えばよい。「目には目を」は、際限のない報復を戒め、加えた害と同じだけの罰に限るという意味でもあったが、その「同じだけ」は身分によって違っていた。

一方で、前文と後文には、強き者が弱き者を虐げないように、孤児と寡婦が正しく扱われるように、という言葉が繰り返される。虐げられた者は石碑の前に来て、刻まれた言葉を読んでもらい、自分の訴えの答えを知り、心を安らかにせよ、と後文は語る。もっとも、当時の裁判の記録にこの法典が引用された例はほとんど見つかっていない。実際の裁判の決まりというより、王が正義の王であることを神と後の世に示す記念碑だったとみる研究者は多い。

ラルサ出土の礼拝者像(ルーヴル美術館)
ラルサ出土の礼拝者像(ルーヴル美術館)Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

ハンムラビは紀元前1750年頃に死んだ。死後まもなく、王国は崩れ始めた。息子サムス・イルナの治世に南部の都市が反乱を起こし、バビロンは征服した土地の多くを失った。王朝そのものはその後も150年ほど続いたが、紀元前1595年頃、アナトリアのヒッタイトの王が遠征してバビロンを略奪し、終わりを迎える。

石碑はその後も長く残った。紀元前12世紀、東方のエラムの王がバビロニアに攻め込んだ際、戦利品としてこの石碑を自国の都スーサへ持ち去った。条文の一部が削られているのは、エラムの王が自分の碑文を刻むために削らせたものの、刻まれずに終わったためと考えられている。1901年の暮れから翌年にかけて、フランスの発掘隊がイランのスーサで、三つに割れたこの石碑を掘り出した。いまパリのルーヴル美術館にある。

ハンムラビの奉納碑(大英博物館)
ハンムラビの奉納碑(大英博物館)Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · CC BY 2.5

法典そのものは、メソポタミアで最古の法ではない。それより数百年前のウル・ナンム王の法典なども知られている。それでも、これほど多くの条文がほぼ完全な形で残った例は他に無く、法典はその後もメソポタミアで書記の教材として千年以上写され続けた。古代の社会の暮らしを、王の言葉で具体的に伝える記録になっている。

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