できごと

ダレイオス3世の死

Death of Darius III
BC330年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC330年の版図を描いています(28勢力)。

概要

逃げる大王を、部下のベッソスが縛って荷車に乗せ、追いつかれると刺して捨てた。アレクサンドロスは死体に自分のマントをかけ、ペルセポリスに王として葬らせた。ベッソスは翌年、鼻と耳を削がれて処刑された。ペルシア帝国は終わり、アレクサンドロスがその王になった。

場所

ダームガーン
36.17°N 54.35°E · イラン

関わった人(2)

ダレイオス3世BC380年頃–BC330年 · 殺されたベッソス?–BC329年 · 刺した

本文

紀元前331年10月、ガウガメラの戦いで、ペルシアの王ダレイオス3世は、アレクサンドロス3世の騎兵が自分に迫るのを見て戦場から逃げた。2年前のイッソスの戦いに続いて二度目の敗走である。ダレイオスは東のメディアの都エクバタナへ退いて冬を越した。その間に、バビロン(アレクサンドロスのバビロン入城)、スーサ、そして王家の都ペルセポリスが、次々にアレクサンドロスの手に落ちた。

紀元前330年の春、アレクサンドロスがエクバタナへ向かうと、ダレイオスはさらに東へ逃れた。ダレイオスにはまだ軍を立て直す望みがあったが、彼のまわりの貴族たちは、もはやこの王には従えないと考え始めていた。その中心にいたのが、バクトリアの総督で王の親族でもあるベッソスだった。ベッソスは、騎兵の指揮官ナバルザネスや、アラコシアの総督バルサエンテスらと謀り、カスピ門を越えたあたりで王を捕らえた。王は、身分にふさわしく金の鎖で縛られ、覆いをかけた荷車に乗せられたと伝えられる。王に忠実な老将アルタバゾスや、王に仕えていたギリシア人の傭兵たちは、これに加わらず、一行から離れて北の山地へ去った。

ダレイオス3世の肖像
ダレイオス3世の肖像Wikimedia Commons Public domain

アレクサンドロスは、テヘランの近くのラガイで、ダレイオスが捕らえられたという知らせを受けた。彼は精鋭の騎兵を選び、夜も昼も休まずに追った。水の無い土地を進み、土地の者から近道を聞くと、歩兵を降ろして騎兵を乗せ、砂漠を横切った。夜明けごろ、ついに逃げるペルシアの一行に追いついたとき、アレクサンドロスについて来られたのは、わずか60人ほどだったと伝えられる。

追いつかれたと知ると、ベッソスたちはダレイオスに馬に乗って一緒に逃げるよう迫った。王はそれを拒んだ。彼らは王を槍で刺し、荷車に残したまま、それぞれの方向へ散って逃げた。荷車を引く獣も傷つき、道をそれて止まった。

イッソスの戦いのモザイク画(ナポリ国立考古学博物館)。アレクサンドロスと戦うダレイオス3世
イッソスの戦いのモザイク画(ナポリ国立考古学博物館)。アレクサンドロスと戦うダレイオス3世Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

プルタルコスによれば、水を探していたマケドニアの兵ポリュストラトスが谷間でその荷車を見つけた。王は血にまみれ、まだ息があった。兵が兜で水を汲んで飲ませると、ダレイオスは、自分の母と妻と子をアレクサンドロスが丁重に扱ってくれたことへの礼を伝えてほしいと言い、兵の手を取って息を引き取ったという。一方、アリアノスは、アレクサンドロスが着いたときには王はすでに死んでいた、とだけ記す。最後の言葉の場面は、後に飾られた話かもしれない。紀元前330年の夏、ダレイオスは50歳ほどで、王位について6年にすぎなかった。

アレクサンドロスは、王の亡骸に自分のマントをかけたと伝えられる。遺体はペルセポリスへ送られ、歴代の王の墓所に、王にふさわしい礼で葬られた。この年のはじめ、アレクサンドロスはペルセポリスの宮殿を焼いていた(ペルセポリス炎上)。その同じ人が、いまはペルシアの王の葬いを手厚く行い、王を殺した者に仇を討つと宣言した。自分は王を倒した征服者ではなく、正当な後継者としてペルシアの王になる、という意思表示だった。

死にゆくダレイオスのもとに立つアレクサンドロス(15世紀の写本挿絵)
死にゆくダレイオスのもとに立つアレクサンドロス(15世紀の写本挿絵)Wikimedia Commons Unknown Flemish artist · CC0

ベッソスは東のバクトリアへ逃れ、アルタクセルクセス5世と名乗って王を称した。だが翌紀元前329年、配下の者たちに裏切られ、アレクサンドロスに引き渡された。アリアノスによれば、アレクサンドロスは彼を裸にして首に枷をはめ、軍の通る道端に立たせて辱めた後、鼻と耳を削がせ、エクバタナに送って、ペルシア人の前で処刑させた。王殺しを、ペルシアのやり方で裁いたのである(ベッソスの処刑)。曲げた二本の木に体を縛りつけて引き裂いたとする書き手もいる。

キュロス2世から220年続いたアケメネス朝ペルシアは、こうして終わった。だが、それを「帝国の滅亡」と受け止めた人は、当時は多くなかったかもしれない。王の名前と顔が変わっただけで、総督たちはそのまま地方を治め、道も税の仕組みも残った。アレクサンドロスはやがてペルシア風の衣を身につけ、ペルシアの宮廷の礼を取り入れ、マケドニアの古参の兵たちの反発を招くことになる。

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