できごと

アレクサンドロスの東方遠征

Wars of Alexander the Great
BC334年 – BC323年
期間を持つできごと重要度 5
BC334年

概要

11年でギリシアからインダス川まで到達し、アケメネス朝ペルシアを滅ぼした。

関わった人(1)

アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · マケドニア側 · 総指揮

本文

父フィリッポス2世が計画していたペルシア遠征は、父の暗殺で宙に浮いていた。20歳で王位を継いだアレクサンドロスは、北の部族とギリシアの反乱を2年で抑え込み、紀元前334年の春、およそ3万から4万の歩兵と5千ほどの騎兵を率いてヘレスポントス海峡を渡った。若いころにアリストテレスから学び、ホメロスの叙事詩を枕元に置いていたと伝えられる王は、渡ってすぐにトロイアを訪れ、英雄アキレウスの墓に花輪を捧げたという。

相手は、エーゲ海からインダス川までを支配するアケメネス朝ペルシアだった。広さでも富でも、マケドニアとは比べものにならない。最初の大きな戦いは、渡海してまもないグラニコス川の戦いで、王自らが騎兵の先頭に立って川を渡り、危うく命を落としかけた。勝ったあと、小アジアのギリシア人の都市を次々に解放していった。ゴルディオンでは、解いた者がアジアの王になると言い伝えられた結び目を剣で断ち切ったという話が残る(ゴルディオンの結び目)。

グラニコス川の戦いに関わる図版:Charles Le Brun, Le Passage du Granique, 1665
グラニコス川の戦いWikimedia Commons Charles Le Brun / Abraham Genoels · Public domain

紀元前333年、イッソスの戦いで、ペルシア王ダレイオス3世自身が率いる大軍と初めてぶつかった。王が騎兵を率いてダレイオスのいる中央へ迫ると、ダレイオスは戦車を捨てて逃げた。陣営に残された王の母と妻と娘たちは捕らえられたが、アレクサンドロスは彼女たちを王族として丁重に扱わせた。

それでも王は、すぐにはダレイオスを追わなかった。ペルシア海軍の基地を奪うために地中海の沿岸を南へ下り、島の要塞都市テュロスを7か月かけて攻め落とした。海を埋めて島まで堤を築くという、執念の包囲だった。エジプトはほとんど戦わずに迎え入れた。王はリビア砂漠のシワのオアシスにあるアモン神の神託所を訪れ、神官から神の子と呼ばれたとされる。ナイル河口の西には、新しい都市を築かせた(アレクサンドリア建設)。

紀元前331年10月、ティグリス川の東の平原で、ふたたびダレイオスと戦った。ガウガメラの戦いである。ペルシア軍は数で大きく上回り、鎌を付けた戦車まで用意していた。王は右翼から斜めに進んで敵の隊列を引き延ばし、中央に生まれた隙間へ騎兵を突っ込ませた。ダレイオスはまた逃げた。王はバビロン、スサ、そしてペルシアの王都ペルセポリスに入り、そこに積まれていた莫大な財宝を手に入れた。ペルセポリスの宮殿は、紀元前330年に焼け落ちている(ペルセポリス炎上)。ペルシア戦争でアテナイを焼かれた仕返しだったのか、酒宴の勢いだったのかは、史料によって語られ方が違う。

ガウガメラの戦いに関わる図版:Pietro da Cortona - Battle of Alexander versus Darius - Google Art Project
ガウガメラの戦いWikimedia Commons Pietro da Cortona · Public domain

逃げ続けたダレイオスは、その年のうちに自分の臣下に殺された。アレクサンドロスはダレイオスの遺体を王にふさわしく葬らせ、自らペルシア王の後継者として振る舞いはじめる。そこから先の中央アジア、いまのアフガニスタンやウズベキスタンにあたるバクトリアとソグディアナでは、大きな会戦ではなく、山岳と砂漠での3年に及ぶゲリラ戦が待っていた。王はこの地の有力者の娘ロクサネを妻に迎えた。

やり方に共通するのが、決定的な一点に自ら騎兵を率いて突っ込むことになる。王が最前線にいる。何度も負傷している。インドのある町の攻撃では、城壁の内側にほとんど一人で飛び降り、胸に矢を受けて生死の境をさまよった。一度も会戦で負けていない。

アレクサンドロス大王を描いたモザイク画
アレクサンドロス大王を描いたモザイク画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

征服した後の処置も特徴的だった。ペルシアの官僚や総督をそのまま使い、ペルシアの服装や宮廷の儀礼を取り入れ、部下にペルシア女性との結婚を勧めた。マケドニア人の将軍たちは反発した。何のために戦ったのか、と。王の側近だった将軍フィロタスは陰謀に関わったとして処刑され、その父の老将パルメニオンも暗殺された。酒宴の席で王の東方かぶれを非難した古くからの友クレイトスを、王は激昂して自ら槍で刺し殺した。ペルシア風に王の前でひれ伏す礼を求めたときには、同行していた歴史家カリステネスが拒み、のちに陰謀への関与を疑われて死んだ。

紀元前326年、王はインダス川を越え、ヒュダスペス川のほとりでインドの王ポロスの軍と戦った。象の部隊を前にした難しい戦いだったが、これにも勝った(ヒュダスペス川の戦い)。王はさらに東へ、ガンジス川の方へ進もうとした。

ヒュダスペス川の戦いに関わる図版:Alexander the Great (356-23 BC) and Porus (oil on canvas)
ヒュダスペス川の戦いWikimedia Commons Francesco Fontebasso · Public domain

ヒュファシス川まで来たところで、兵が動かなくなった。8年、故郷を見ていない。モンスーンの雨が続き、兵たちはこれ以上進むことを拒んだ。王は3日間天幕にこもったが、ついに引き返すことを受け入れた。

帰路はインダス川を下って海に出て、陸路はゲドロシアの砂漠を通った。水も食糧も乏しいこの行軍で、兵と従軍者の多くを失った。艦隊は別に海岸沿いを進んだ。王はスサに戻り、マケドニアの将校とペルシア貴族の娘たちとの合同の結婚式を挙げさせた。

アレクサンドロス大王の胸像(ヘレニズム期、紀元前2〜1世紀、大英博物館)
アレクサンドロス大王の胸像(ヘレニズム期、紀元前2〜1世紀、大英博物館)Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

各地に、自分の名をつけた「アレクサンドリア」を建てた。20を超えるとされるが、数え方には幅があり、既存の町を改名しただけのものも含まれる。それらの町に住みついたギリシア人とマケドニア人が、ギリシアの言葉と文化を東へ運び、のちにヘレニズムと呼ばれる時代の土台になった。インドの北西部では、のちにギリシア風の顔立ちと衣をまとった仏像が作られる。

紀元前323年、王はバビロンで高熱を出し、32歳で死んだ(アレクサンドロスの死)。遠征に出てから11年、ギリシアからインダス川まで到達し、アケメネス朝ペルシアを滅ぼした。だが、その帝国をどう治め、誰に渡すのかは、何も決まっていなかった。

出典(1)

ウィリアム・H・マクニール(増田義郎、佐々木昭夫 訳) 『世界史』第II部 諸文明間の平衡状態(BC500〜AD1500年)

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