カイロネイアの戦い

概要
フィリッポス2世がアテナイ・テーバイ連合軍を破り、ギリシアの都市国家の時代が終わった。18歳のアレクサンドロスが左翼を指揮した。
場所
38.49°N 22.85°E · ギリシア・ボイオティア
関わった人(2)
フィリッポス2世BC382年–BC336年 · マケドニア側 · 総指揮アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · マケドニア側 · 左翼指揮本文
紀元前4世紀の半ば、ギリシアの北の辺境にあったマケドニアが、急に力をつけていた。王フィリッポス2世は、若いころテーバイに人質として暮らし、そこでテーバイの名将たちの戦い方を間近に見ていた。即位すると、長い槍を持たせた密集歩兵と、王の騎兵を組み合わせた軍を作り、金銀の鉱山を押さえて財政を固めた。北の部族を従え、ギリシアの諸都市を一つずつ取り込んでいく。マケドニアの歩兵が持つ槍は長さ5メートルを超え、横に並んだ兵の前に槍の穂先が何列も突き出す。正面から崩すのは難しかった。
ギリシアの側の受け止め方は一つではなかった。アテナイの老いた弁論家イソクラテスは、争いの絶えないギリシアの諸都市をまとめ、共通の敵ペルシアに向かわせる人物として、むしろフィリッポスに期待をかけた。都市どうしの戦争に疲れた人々にとって、強い王の下での平和は魅力でもあった。

これに最も強く抵抗したのがアテナイの弁論家デモステネスだった。彼はデモステネスの『フィリッポス弾劾』で、フィリッポスはギリシアの自由を奪う者だと訴え続けた。紀元前339年、ついに長年の宿敵だったアテナイとテーバイが手を結ぶ。それを実現させたのも、テーバイに乗り込んだデモステネスの弁舌だったと伝えられる。
両軍は、ボイオティア地方のカイロネイアの平野で向き合った。日付は紀元前338年8月2日と伝えられる(9月とする説もある)。兵力は双方とも3万から3万5千ほどとされ、数の上ではほぼ互角だった。連合軍は、右にテーバイ軍、左にアテナイ軍を置いた。テーバイの右端には、精鋭の神聖隊がいた。300人で編成され、恋人どうしの男たちが組になって並んだと伝えられる部隊で、それまで無敗をうたわれていた。

フィリッポスは右翼でアテナイ軍と向き合い、左翼の騎兵を18歳の息子アレクサンドロス3世に任せた。戦いの細部は史料によって食い違うが、よく知られた説明はこうなる。フィリッポスが自分の側をわざと後退させると、アテナイ軍は勝ったと思って追いかけ、連合軍の隊列に隙間ができた。そこへアレクサンドロスの騎兵が突っ込み、テーバイ軍を崩した。向きを変えたフィリッポスの歩兵がアテナイ軍を押し返し、連合軍は総崩れになった。アテナイ側だけで1000人が戦死し、2000人が捕虜になったという。デモステネスも重装歩兵として戦い、逃げ延びた。
神聖隊は退かなかった。一人残らず倒れたとされる。19世紀末、カイロネイアに立つ石の獅子像の下を掘ったところ、7列に並んだ254体の遺骨が見つかった。これを神聖隊の墓と見る説が有力である。獅子像は崩れて土に埋もれていたのを19世紀の初めに旅行者が見つけ、20世紀の初めに組み直されて、いまも平野を見下ろしている。この戦いを詳しく書き残したプルタルコスは、のちにこのカイロネイアで生まれ育った人だった。
プルタルコスは、戦いのあとフィリッポスが神聖隊の死者が折り重なっているのを見て涙を流し、この男たちが恥ずべきことをしたと疑う者は惨めに滅びよ、と言ったと伝えている。一方で、勝利の夜に酔って戦場を歩き、捕虜を嘲ったという話も残っており、どちらの姿も後世の脚色を含んでいるかもしれない。
戦後の処置が巧みだった。テーバイには厳しく、城塞に駐屯軍を置き、捕虜には身代金を課し、親マケドニア派を政権につけた。アテナイには寛大な条件を出した。捕虜を身代金なしで返し、戦死者の遺骨を、アレクサンドロスらに送り届けさせた。アテナイの都市そのものには手を付けなかった。理由ははっきりしている。ペルシアと戦うには、アテナイの海軍が要る。

敗戦の知らせが届いたアテナイは、マケドニア軍がすぐにも攻めてくると恐れた。城壁の修理が急がれ、奴隷を解放し、在留外国人に市民権を与えてでも兵を集めようという提案まで出された。結局その必要はなかったが、それほどの衝撃だった。
アテナイでは、戦死者を葬る追悼演説の役がデモステネスに任された。負けた戦いを呼びかけた本人に、市民はなおその役を託した。
翌紀元前337年、フィリッポスはギリシアの諸都市の代表をコリントスに集めて同盟を作らせ、自分を盟主として、ペルシアへの遠征を決議させた。スパルタだけが加わらなかった。都市国家どうしが争い、自分たちで自分たちの運命を決めた時代は、ここで終わる。以後のギリシアの都市は、形の上では自治を保ちながら、マケドニア、のちにはローマの大きな枠の中で生きることになる。
フィリッポスは、その遠征に出る前の紀元前336年、娘の婚礼の祝いの場で、自分の護衛官に刺されて死んだ。動機には諸説がある。20歳で王位を継いだアレクサンドロスは、反乱を起こしたテーバイを紀元前335年に攻め落として破壊し(テーバイの破壊)、翌年、父の計画どおりアジアへ渡った。最初の大きな会戦はグラニコス川の戦いである。カイロネイアで騎兵を率いた若者は、ここから東の果てまで進むことになる。