人物

カッサンドロス

Cassander
BC355年頃 – BC297年(享年58・推定)
マケドニア重要度 3

概要

アンティパトロスの息子。アレクサンドロスに嫌われ、その死後にマケドニアを取った。王の母オリュンピアスを殺し、妻ロクサネと息子を殺し、王の異母妹と結婚した。アレクサンドロスの血を絶やした人で、テッサロニキとカッサンドレイアを建てた。

所属

マケドニア

本文

カッサンドロスは、紀元前355年ごろ、マケドニアの重臣アンティパトロスの長男として生まれた。アンティパトロスは、フィリッポス2世とその子アレクサンドロス3世の二代に仕えた老練の将軍で、アレクサンドロスが東方へ遠征しているあいだ、本国のマケドニアとギリシアを預かっていた。カッサンドロスはアレクサンドロスとほぼ同じ年頃だったが、遠征には加わらず、父のもとにとどまった。

「カッサンドロスとオリンピアス」(ジャン=ジョゼフ・タイヤソン画)
「カッサンドロスとオリンピアス」(ジャン=ジョゼフ・タイヤソン画)Wikimedia Commons Jean-Joseph Taillasson · Public domain

彼について伝わる逸話には、屈辱にまつわるものが多い。マケドニアでは、網を使わずに猪を仕留めた者でなければ、宴で寝椅子に横たわって食事をすることを許されなかった。カッサンドロスは35歳になってもその手柄を立てられず、父の食卓で座ったまま食べていたという。

紀元前324年、アレクサンドロスとアンティパトロスの関係が冷え、王は老将をバビロンへ呼び寄せようとした。父の代わりに弁明に向かったのが、カッサンドロスだった。プルタルコスによれば、彼はペルシア人が王の前でひれ伏す礼を見て笑い出し、怒ったアレクサンドロスは彼の髪をつかんで頭を壁に打ちつけた。後年、マケドニアの王になってからも、デルポイでアレクサンドロスの像を目にしたとき、彼は体が震えて目まいがした、と伝えられる。

カッサンドロスの貨幣(紀元前310年以降鋳造)、獅子の毛皮をまとうヘラクレスを表す
カッサンドロスの貨幣(紀元前310年以降鋳造)、獅子の毛皮をまとうヘラクレスを表すWikimedia Commons CNG Coins · Public domain

紀元前323年、アレクサンドロスはバビロンで急死した(アレクサンドロスの死)。のちに、アンティパトロスの一家が毒を盛った、カッサンドロスが毒を運び、王の酌係だった弟がそれを酒に入れた、という噂が広まった。王の母オリュンピアスはこれを信じたが、毒殺を裏づける確かな証拠は無い。

紀元前319年、父アンティパトロスは死に際して、王国の摂政の地位を、息子ではなく老将ポリュペルコンに譲った。不満を抱いたカッサンドロスは、アジアのアンティゴノスやエジプトのプトレマイオス1世と手を組み、ポリュペルコンと争った(ディアドコイ戦争)。紀元前317年にはアテナイを押さえ、哲学者でアリストテレスの学派に連なるデメトリオスに、10年にわたって町を治めさせた。

同じ年、アレクサンドロスの母オリュンピアスは、軍を率いてマケドニアに戻り、カッサンドロスと結んでいた王フィリッポス3世(アレクサンドロスの異母兄)とその妻を殺し、カッサンドロスの一族や支持者を多く処刑した。カッサンドロスは南から引き返し、ピュドナの町に立てこもったオリュンピアスを包囲した。冬の包囲で町は飢え、紀元前316年、オリュンピアスは降伏した。マケドニア人の集会は彼女に死刑を言い渡し、彼女に殺された者の親族たちが刑を執行した。オリュンピアスは逃げも命乞いもせず、王の母として死んだと伝えられる。

カッサンドロスは、アレクサンドロスの妻ロクサネと幼い息子アレクサンドロス4世を、アンフィポリスの砦に閉じ込めた。そして、フィリッポス2世の娘で、アレクサンドロスの異母妹にあたるテッサロニケを妻とした。王家の血を引く女性と結婚することで、自分の支配に正しさを与えようとしたのである。同じ頃、彼はカルキディケ半島に、自分の名をとったカッサンドレイアの町を建て、テルマ湾の奥にいくつもの村を集めて、妻の名をとったテッサロニケの町を作った。いまのギリシア第二の都市テッサロニキである。アレクサンドロスが破壊したテーバイの町も建て直させた(テーバイの破壊)。

紀元前310年ごろ、少年王が成長して王位を求める年頃になると、カッサンドロスは、ひそかに母子を殺させた。翌年には、アレクサンドロスのもう一人の息子とされたヘラクレスも、ポリュペルコンに殺させた。こうして、アレクサンドロスの血を引く者はいなくなった。紀元前305年ごろ、ほかの後継者たちが次々に王を名乗ると、彼もマケドニアの王を称した。紀元前301年には、ほかの王たちと同盟してアンティゴノスを倒した(イプソスの戦い)。

イプソスの戦いに関わる図版:The Battle of Ipsus
イプソスの戦いWikimedia Commons James D. McCabe · Public domain

紀元前297年、カッサンドロスは病で死んだ。60歳前後だった。後を継いだ長男はまもなく病死し、残る二人の息子は王位を争って、一人は母テッサロニケを殺した。やがて一人は助けを求めた後継者の一人デメトリオスに殺され、もう一人も逃れた先で殺されて、アンティパトロスの家はまもなく絶えた。2世紀のギリシアの旅行家パウサニアスは、アレクサンドロスの一族を滅ぼした報いだとした。カッサンドロスは、歴史の中で王家を根絶やしにした悪役として描かれてきた。だが、彼が建てたテッサロニキは、2300年後のいまも港町として栄えている。

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