できごと

ガウガメラの戦い

Battle of Gaugamela
BC331年10月1日
重要度 5
ガウガメラの戦いに関わる図版:Pietro da Cortona - Battle of Alexander versus Darius - Google Art Project
Pietro da Cortona - Battle of Alexander versus Darius - Google Art Project Wikimedia Commons Pietro da Cortona · Public domain

概要

ペルシアの主力を平原で破り、アケメネス朝の命運が決した。戦場の正確な位置は特定されていない。

場所

ガウガメラ位置は特定されていない(誤差 ±35km)
36.36°N 43.25°E · イラク・ニーナワー県(戦場の位置には諸説ある)

関わった人(3)

アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · マケドニア側 · 総指揮ダレイオス3世BC380年頃–BC330年 · ペルシア側 · 総指揮ベッソス?–BC329年 · 左翼

本文

紀元前333年のイッソスの戦いで、ペルシア王ダレイオス3世は戦場から逃げ、母と妻と娘たちをマケドニア軍の陣中に残した。アレクサンドロス3世は追わなかった。地中海沿岸を南へ下り、7か月かけてティルスを落とし、エジプトに入った。海沿いの港を押さえ、ペルシア艦隊の拠点を奪うためだった。

そのあいだにダレイオスは和平を申し出た。ユーフラテス川より西を譲り、娘を嫁がせ、多額の身代金を払うという内容である。老将パルメニオンが「私がアレクサンドロスなら受ける」と言うと、王は「私もパルメニオンならそうする」と答えたという。後世の伝記に残る有名な逸話で、真偽は確かめられないが、二人の立場の違いはよく表している。

ガウガメラの戦いを描いた銅版画(18世紀前半)
ガウガメラの戦いを描いた銅版画(18世紀前半)Wikimedia Commons Public domain

ダレイオスは帝国の東半分から兵を集めた。バクトリアやインド寄りの地方の騎兵、鎌を車輪に付けた戦車、それに象もいた。今度は戦う場所を自分で選んだ。ティグリス川の東、いまのイラク北部の平原である。地面をならし、戦車が全速で走れるようにした。イッソスでは狭い土地で数を生かせなかった。その反省である。

紀元前331年9月、マケドニア軍はティグリス川を渡った。戦いの11日前、月食が起きている。これは天文学の計算で9月20日と確かめられ、バビロンの天文記録にも書き留められている。古代の戦いのなかで、日付がこれほど確かなものは多くない。

両軍配置と緒戦
両軍配置と緒戦Wikimedia Commons Public domain

両軍の兵力は、史料によって大きく異なる。マケドニア側は歩兵約4万、騎兵約7000とされる。ペルシア側について古代の著者は数十万から百万と書くが、これは誇張と考えられ、現代の推定にも幅がある。ただ、ペルシア軍の戦列がマケドニア軍よりはるかに長く、両翼を包み込める形だったことは確かとされる。

10月1日、アレクサンドロスは右翼の騎兵の先頭に立ち、正面ではなく右斜めへ進んだ。ペルシア軍の左翼は、ならした地面の外へ出られるのを嫌って並走し、左へ左へと引き延ばされた。アレクサンドロスは、回り込まれることを見越して、主力の後ろに第二の戦列を置き、向きを変えて後方の敵に当たれるようにしていた。ペルシアの戦車が突撃してきたが、軽装の兵が投げ槍で御者と馬を倒し、残りは歩兵が隊列を開いて後ろへ通した。

ガウガメラの戦い(ヤン・ブリューゲル)
ガウガメラの戦い(ヤン・ブリューゲル)Wikimedia Commons Jan Brueghel the Elder · Public domain

やがて、引き延ばされたペルシア軍の左翼と中央のあいだに隙間が生じた。アレクサンドロスは近衛の騎兵を楔の形にまとめ、その隙間に突入した。目指したのはダレイオスのいる中央である。重装歩兵の長槍の列がその後に続いた。王の周りが崩れかけると、ダレイオスはふたたび戦車を返して逃げた。王が去ったことが伝わると、ペルシアの中央は崩れた。

一方、左翼を預かったパルメニオンは苦しい戦いを強いられていた。ペルシアの右翼が回り込み、敵の一部は戦列を突き抜けてマケドニアの陣営まで達している。アッリアノスの伝記では、パルメニオンからの救援要請を受けたアレクサンドロスが追撃をやめて引き返し、その途中で逃げるペルシア騎兵と激しく斬り合ったとされる。ほかの史料には、伝令が届かなかったとするものもあり、王の判断をめぐる記述はそろっていない。プルタルコスはパルメニオンの働きを低く描いているが、これは後に王がパルメニオンを処刑したことを正当化する筆の運びだとみる研究者もいる。

ガウガメラの戦いでのアケメネス軍のインド象部隊
ガウガメラの戦いでのアケメネス軍のインド象部隊Wikimedia Commons André Castaigne (1861-1929, Public Domain) · Public domain

日が暮れてから、アレクサンドロスはダレイオスを追って騎行したが、追いつけなかった。翌日、近くの町アルベラで王の戦車と弓と財宝を手に入れた。戦いはこの町の名で「アルベラの戦い」とも呼ばれる。ガウガメラという村の名は「ラクダの家」を意味するとプルタルコスは伝える。その正確な位置は分かっておらず、現在のモスルの北東にあたる平原のどこか、とされるにとどまる。

ガウガメラの後、帝国の中心は抵抗なく開かれた。アレクサンドロスのバビロン入城では町の人々が花を撒いて迎えたとされ、続いてスーサの宝庫、そして王都ペルセポリスに入る。翌年、ペルセポリスの宮殿は火に包まれた(ペルセポリス炎上)。

ガウガメラの戦いを描いた浮彫。ヨーロッパとアジアの寓意像を伴う(紀元前2世紀〜後2世紀)
ガウガメラの戦いを描いた浮彫。ヨーロッパとアジアの寓意像を伴う(紀元前2世紀〜後2世紀)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ダレイオスはメディアの都エクバタナに逃れ、さらに東へ退いた。紀元前330年の夏、側近のバクトリア総督ベッソスらに捕らえられ、殺された(ダレイオス3世の死)。ベッソスはガウガメラでペルシア軍左翼の騎兵を率いた人物で、王を殺した後みずから王を名乗ったが、翌年捕らえられて処刑された。

キュロス2世以来二百年余り続いたアケメネス朝ペルシアは、ガウガメラで命運が決まり、ダレイオスの死で終わった。アレクサンドロスはペルシアの王の衣装を一部取り入れ、ペルシア人の貴族を登用しはじめる。それはマケドニアの古参兵の反発を呼び、同じ年、パルメニオンの息子が陰謀の罪で処刑され、パルメニオン自身も暗殺された。勝利の後に来たのは、勝った側の内部の亀裂だった。

出典(1)

アッリアノス 『アレクサンドロス大王東征記』第3巻 8–15

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