アレクサンドロス3世
概要
11年でギリシアからインダス川まで到達し、ペルシア帝国を滅ぼした。32歳でバビロンに没し、帝国は将軍たちに分裂する。
別名
アレクサンドロス大王、アレキサンダー大王
所属
マケドニア関わったできごと(19)
カイロネイアの戦いBC338年8月2日 · マケドニア側 · 左翼指揮フィリッポス2世暗殺BC336年 · 後継テーバイの破壊BC335年 · 王アレクサンドロスの東方遠征BC334年 · マケドニア側 · 総指揮グラニコス川の戦いBC334年5月 · マケドニア側 · 総指揮イッソスの戦いBC333年11月 · マケドニア側 · 総指揮ゴルディオンの結び目BC333年 · 断ったティルス攻囲BC332年 · マケドニア側 · 総指揮アレクサンドリア建設BC331年 · 建設ガウガメラの戦いBC331年10月1日 · マケドニア側 · 総指揮シワの神託BC331年 · 神の子アレクサンドロスのバビロン入城BC331年10月 · 王ペルセポリス炎上BC330年 · 当人ベッソスの処刑BC329年 · 王ヒュダスペス川の戦いBC326年5月 · マケドニア側 · 総指揮ヒュファシス川の兵の拒否BC326年 · 折れた側スーサの集団結婚BC324年 · 主催ヘファイスティオンの死BC324年 · 悼んだアレクサンドロスの死BC323年6月10日(11日説あり) · 当人本文
紀元前356年の夏、マケドニアの都ペラに生まれた。生まれた日は7月20日とされ、21日の説もある。父はマケドニアを強国に育て上げたフィリッポス2世、母は北西のエペイロスの王家から来たオリュンピアスである。母は息子に、自分は英雄アキレウスの血を引き、お前の本当の父は神ゼウスだと語ったと伝えられる。

13歳の頃から3年ほど、父が招いた哲学者アリストテレスに学んだ。都から離れたミエザの学び舎で、政治、倫理、医学、自然を学んだという。アレクサンドロスはホメロスの『イリアス』を愛読し、遠征の間も、アリストテレスが校訂した写本を短剣とともに枕の下に置いていたとプルタルコスは伝える。誰も乗りこなせなかった暴れ馬ブケファラスを、馬が自分の影に怯えていると見抜いて、太陽に向けて乗りこなしたという話も、同じ伝記に載っている。
18歳で、紀元前338年のカイロネイアの戦いに騎兵を率いて加わり、アテナイとテーバイの連合軍を破った。2年後の紀元前336年、父が祝宴の場で護衛の一人に刺し殺された。フィリッポス2世暗殺の背後に母や息子がいたという疑いは、当時からささやかれたが、確かなことは分からない。

20歳で王位に就き、32歳で死んだ。その12年で、ギリシアからインダス川まで到達している。即位するとすぐ、背いたテーバイを攻め落として町を破壊し、ギリシアの諸都市を従わせた。
紀元前334年、3万数千の歩兵と5000ほどの騎兵を率いてヘレスポントス海峡を渡り、アレクサンドロスの東方遠征を始める。最初のグラニコス川の戦いでペルシアの地方軍を破り、小アジアの都市を次々に解放した。ゴルディオンで、解いた者がアジアの王になるという結び目を剣で断ち切ったという話は、よく知られた伝説である。

会戦で負けなかった。戦い方が一貫している。長い槍を持った重装の歩兵の密集隊で敵の正面を受け止め、決定的な一点に、自ら騎兵を率いて突っ込む。紀元前333年のイッソスの戦いでは、ペルシア王ダレイオス3世が戦場から逃げ、残された母と妻と娘たちを、アレクサンドロスは王族として丁重に扱った。
南へ向かい、海に浮かぶ島の都市テュロスを7か月の包囲で落とし、エジプトに入った。エジプトの人々は彼をペルシアからの解放者として迎えた。砂漠のシーワのオアシスでアモン神の神託を受け、神の子と告げられたと伝えられる。ナイルの河口にアレクサンドリア建設を行ったのもこのときである。
紀元前331年、ガウガメラの戦いで、数で大きく勝るダレイオス3世の軍を再び破った。バビロンに入り、ペルシアの都を次々に押さえる。翌年、ペルセポリスの宮殿は炎に包まれた。かつてペルシアがアテナイを焼いた報復とも、酒宴の勢いだったとも伝えられる。逃げたダレイオスは、自分の臣下に殺された。

ペルシアの王を継ぐ者として振る舞いはじめると、マケドニアの側との間に溝ができた。ペルシアの官僚をそのまま使い、ペルシアの服装を取り入れ、部下にペルシア女性との結婚を勧めた。王の前でひれ伏す東方の礼を、ギリシア人にも求めようとした。マケドニアの将軍たちは反発した。古参の将軍パルメニオンとその息子は、陰謀の疑いで殺されている。親友クレイトスを、酒席の口論で刺し殺した。我に返ると三日間食を断って嘆いたと伝わる。
中央アジアでは、土地の豪族の娘ロクサネと結婚した。紀元前326年、インダス川を越え、ヒュダスペス川の戦いで象の部隊を持つインドの王ポロスを破る。勇敢に戦ったポロスに、どう扱われたいかと尋ね、王として扱えと答えたので、領地を返したという話がある。この戦いの後、愛馬ブケファラスが死に、その名をつけた町を建てた。

さらに東へ進もうとしたが、ヒュファシス川のほとりで、8年も戦い続けてきた兵士たちがついに進軍を拒んだ。アレクサンドロスは引き返す。帰路、インダスの下流の町を攻めたとき、城壁の内側に真っ先に飛び込み、矢で胸を貫かれて死にかけた。何度も負傷し、このときは肺を矢で貫かれている。南の砂漠を横切る帰りの行軍では、暑さと渇きで多くの兵を失った。
紀元前324年、ペルシアの古都スサで、自分と80人の将校がペルシアの貴族の娘と一斉に結婚する式を挙げた。兵士たちの現地妻との結婚も認め、祝いの品を与えた。東西を一つに混ぜ合わせる構想だったとも、支配のための政略だったとも解釈される。同じ年、少年時代からの友ヘファイスティオンが病死し、深く嘆いた。

20以上の都市を建てた。多くはアレクサンドリアの名を冠し、ギリシア人の兵士や移民が住んで、ギリシアの言葉と文化を東方に広げる拠点になった。
紀元前323年6月、バビロンで、アラビア遠征の準備のさなかに高熱を出し、10日ほどで死んだ。32歳だった。死因は分かっていない。熱病、毒殺、飲酒による膵炎。後継者を定めなかった。誰に国を遺すのかと問われて「最も強い者に」と答えたという話が伝わるが、確かではない。

死後、将軍たちが帝国を奪い合うディアドコイ戦争が40年余り続き、エジプトのプトレマイオス朝、アジアのセレウコス朝、マケドニア本国のアンティゴノス朝に分かれた。生まれた子も母のロクサネも、その争いの中で殺されている。遺体はエジプトへ運ばれて葬られたが、その墓はいまも見つかっていない。
伝える史料は、プルタルコスやアッリアノスなど、死後数百年たって書かれたものが中心で、同時代の記録は失われている。英雄としても、残酷な征服者としても語られてきた。ギリシアの文化と東方の文化が混ざり合うヘレニズムの時代は、この人の遠征から始まる。