ヒュダスペス川の戦い

概要
象部隊を擁するポロス王を破った。遠征の最東端で、ここから兵は帰還を求めて動かなくなる。
場所
32.50°N 73.60°E · パキスタン・パンジャーブ州(渡河点は特定されていない)
関わった人(2)
アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · マケドニア側 · 総指揮ポロス?–BC317年 · インド側の王本文
紀元前331年、アレクサンドロス3世はガウガメラでペルシア王ダレイオス3世を破った(ガウガメラの戦い)。ペルシア帝国はそれで崩れたが、遠征は終わらなかった。中央アジアのバクトリアとソグディアナで3年近く戦って抵抗を抑え、紀元前327年、マケドニアの軍はヒンドゥークシュの山を越えてインダス川の流域に入った(アレクサンドロスの東方遠征)。
インドの北西部には、いくつもの王国が並んでいた。インダス川の東、タクシラの王はアレクサンドロスに早々と降り、同盟を結んだ。その東隣にいたのが、ヒュダスペス川(いまのパキスタンのジェルム川)の向こうを治める王ポロスである。タクシラの王とは敵どうしで、降伏を拒んで川の東岸に陣を敷いた。

ローマ時代の歴史家アッリアノスの記述によれば、ポロスの軍は歩兵3万、騎兵4000、戦車300、それに戦象200頭だった。数は誇張されている可能性があるが、象がいたことは確かで、これがマケドニア軍にとって最大の問題だった。馬は象の姿と臭いを嫌って近寄りたがらない。正面から渡河すれば、騎兵が上陸した瞬間に象に崩される。
季節は初夏で、川はヒマラヤの雪解けと雨で水かさを増していた。アレクサンドロスは、川の水が引くまで待つと見せかけ、兵糧を集めさせた。そして毎晩のように、騎兵に川岸を騒がしく行き来させ、いまにも渡るかのような物音を立てさせた。ポロスは初めのうちは象を連れてそのたびに対岸を動いたが、何も起きない夜が続くうちに、構わなくなった。

ある嵐の夜、アレクサンドロスは本隊の一部を将軍クラテロスに預けて陣に残し、自らは精鋭を率いて上流へ向かった。陣からおよそ27キロ、川が曲がって森の茂る岬と島に隠れた地点である。雷雨が足音と武具の音を消した。夜明け前に渡りはじめ、島を回り込んだところで、そこがまだ中州であることに気づき、胸まで水に浸かって渡り切ったという。
ポロスは息子に戦車と騎兵を預けて迎え撃たせたが、息子は戦死した。ポロスは本隊を率いて向き直り、象を前に一列に並べ、その後ろに歩兵を置いた。アレクサンドロスは象のいる正面を避けた。まず騎兵で敵の左翼を攻め、将軍コイノスの騎兵を回り込ませて背後を突かせた。インド側の騎兵が崩れて象の列に逃げ込むと、マケドニアの重装歩兵が長槍で進み出た。軽装の兵が象の御者を狙い、象の脚や鼻を斬りつけた。傷ついて御者を失った象は暴れ、敵味方の区別なく踏み荒らした。

戦いは長く激しいものだった。ポロスは最後まで象の上で戦い、肩に傷を負ってようやく退いた。アッリアノスによれば、ポロスは大柄で、象に乗った姿が釣り合って見えるほどだったという。捕らえられたポロスに、アレクサンドロスがどう扱われたいかと尋ねると、ポロスは「王として」と答えた。アレクサンドロスはその答えを気に入り、領地を返したうえ、さらに広い土地を治めさせた。この逸話は古代の著作家たちが伝えるもので、強い敵を味方の王として残し、統治に使う実利の判断でもあった。
この戦いの前後に、アレクサンドロスが少年時代から乗ってきた名馬ブケファラスが死んだ。戦いの傷がもとだったとも、30歳ほどの老齢によるとも伝えられる。アレクサンドロスは戦場の近くに二つの街を建て、一つを勝利を意味する「ニカイア」、もう一つを馬の名から「ブケファラ」と名づけた。

アレクサンドロスはさらに東へ進もうとした。だがヒュファシス川(いまのビアス川)まで来たとき、兵たちが前進を拒んだ(ヒュファシス川の兵の拒否)。故郷を出て8年、強い敵の象の軍を見たうえに、雨季の雨が降り続いていた。アレクサンドロスは引き返し、インダス川を下って帰路につく。ヒュダスペスは、遠征が東へ届いた最後の大きな戦いになった。
ポロスはアレクサンドロスの死後もしばらく王の地位にあったが、紀元前317年ごろ、マケドニアの将軍に殺されたとされる。その少し前、ガンジス川の流域ではチャンドラグプタがマウリヤ朝を開き(マウリヤ朝の成立)、まもなくインダス川の流域まで勢力を広げた。戦場の正確な位置は、川の流れが変わっていることもあって、いまも研究者の間で意見が分かれている。