人物

ペルディッカス

Perdiccas
? – BC321年
マケドニア重要度 3

概要

王の側近。テーバイの壁を最初に登った。ヘファイスティオンの死後、騎兵の長。バビロンで王の指輪を受け取った。「最も強い者に」の遺言を、自分のことと読んだ。異母兄フィリッポス3世と胎児アレクサンドロス4世の摂政。エジプトで部下に刺された。

所属

マケドニア

関わったできごと(1)

ペルディッカスの死BC321年 · 刺された

本文

マケドニア北西部の高地オレスティスの王族の家に、オロンテスの子として生まれた。生年は分からない。オレスティスはかつて独自の王を持った土地で、のちにマケドニアの王に従った。ペルディッカスは、高地の名家の子として宮廷に仕え、やがてアレクサンドロス3世と同じ世代の側近たちの一人となった。

ペルディッカス
ペルディッカスWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

紀元前336年、マケドニア王フィリッポス2世が、娘の婚礼の祝いの場で、護衛のパウサニアスに刺し殺された(フィリッポス2世暗殺)。逃げるパウサニアスを追いかけて討ち取った者たちの中に、ペルディッカスがいた。犯人を生かして取り調べなかったことは、事件の背後に誰がいたのかを闇に葬ったとして、のちにさまざまな憶測を呼んだ。

アレクサンドロスの東方遠征では、重装歩兵の大隊の一つを率いた。紀元前335年、ギリシアのテーバイが背いたとき、アッリアノスによれば、ペルディッカスは命令を待たずに自分の部隊で城壁の柵に攻めかかり、それが総攻撃の口火となって、町は落ちた。このとき彼は深い傷を負っている。その後もグラニコス、ガウガメラと主な戦いに加わり、ガウガメラでも傷を受けた。やがて王の身辺を守る7人の側近護衛官の一人に取り立てられ、インドでの戦いでは軍の一翼を任された。インダス川の流域でアレクサンドロスが矢で胸を深く射られたとき、ペルディッカスが剣で傷口を切り開いて矢を抜いた、という記録もある。

ナイル川。ペルディッカスはこの川の渡河に失敗した
ナイル川。ペルディッカスはこの川の渡河に失敗したWikimedia Commons Marc Ryckaert ( MJJR ) · CC BY 3.0

紀元前324年、アレクサンドロスの最も親しい友ヘファイスティオンが死んだ。ペルディッカスはその後を継ぐ形で、王に次ぐ地位とされる千人隊長の役を担い、精鋭の騎兵を率いることになった。

紀元前323年6月、アレクサンドロスがバビロンで熱病に倒れた(アレクサンドロスの死)。死の床で、王は指にはめていた印章の指輪を外してペルディッカスに渡したと伝えられる。誰に国を託すのかと問われ、「最も強い者に」と答えたとも伝わる。後継ぎは決まっていなかった。王の子を身ごもっていた妃ロクサネの出産はまだ先で、王族の男子は、知的な障害があったとされる異母兄アリダイオスしかいなかった。

バビロンでは軍が二つに割れた。歩兵は、将校メレアグロスに率いられて、すぐに王になれるマケドニア人のアリダイオスを推した。騎兵と将軍たちは、ペルディッカスを中心に、ロクサネの子が生まれるのを待つべきだと主張した。一時は刃を交える寸前までいったが、妥協が成った。アリダイオスをフィリッポス3世として王に立て、ロクサネの子が男子なら共同の王とする。生まれた男子はアレクサンドロス4世となり、ペルディッカスは二人の王の後見人として、帝国の実権を握った。

ペルディッカスはすぐに反対派を片づけた。軍を清めるための儀式と称して全軍を集め、騒ぎの首謀者とされた歩兵およそ300人を引き出して、象に踏み殺させたと伝えられる。メレアグロスは神殿に逃げ込んだが、そこで殺された。帝国の各地の州は、将軍たちに分け与えられた。プトレマイオス1世はエジプトを、アンティゴノスは小アジアの西部を得た。

ペルディッカスの力は、王の名と、王家との結びつきにかかっていた。本国マケドニアを預かる老将アンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を進める一方で、アレクサンドロスの妹クレオパトラとの結婚も探った。王の妹を妻にすれば、自ら王位を狙う道も開ける。この二股が露見すると、アンティパトロスやアンティゴノス、クラテロスは彼に背を向けた。ペルディッカスに忠実だったのは、書記官出身の将軍エウメネスくらいだった。

決定的だったのはアレクサンドロスの遺体である。紀元前321年、豪華な霊柩車でマケドニアへ送られるはずだった遺体を、プトレマイオスがシリアで奪い、エジプトへ運び去った。王の遺体を持つ者は、王の後継者を名乗る力を持つ。ペルディッカスは大軍を率いてエジプトへ攻め込んだ。こうして、アレクサンドロスの後継者たちの長い戦争が始まった(ディアドコイ戦争)。

エジプト攻めはうまくいかなかった。ナイルのほとりの「ラクダの砦」を攻めて落とせず、メンフィスの近くで大河を渡ろうとしたとき、流れの深さを見誤り、2000人ほどの兵が溺れたり、ワニに食われたりして死んだ。兵の怒りは指揮官に向かった。ペルディッカスは有能だったが、傲慢で冷たく、兵に慕われていなかった。その夜、部下の将校ペイトン、セレウコス1世、アンティゲネスらが天幕に押し入り、ペルディッカスを刺し殺した(ペルディッカスの死)。

翌朝、プトレマイオスはペルディッカスの陣営を訪れて兵を慰め、帝国の後見人になってほしいと請われたが、断ったという。エジプトに腰を据える方を選んだのである。ペルディッカスの妹アタランテも、兵の手で殺された。彼の死の知らせが届く直前、小アジアではエウメネスがクラテロスを破っていたが、もはや遅かった。エウメネスはペルディッカス派の残党として孤立し、紀元前316年に裏切られて殺される。帝国を一つのまま保とうとした者は、ペルディッカスの死を境にほとんどいなくなり、アレクサンドロスの国は将軍たちの王国に分かれていった。

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