人物

フィリッポス2世

Philippos II
BC382年 – BC336年(享年46・推定)
マケドニア重要度 4

概要

マケドニアを軍事強国に変え、カイロネイアでギリシアを制した。東方遠征の準備中に暗殺される。

所属

マケドニア

関わったできごと(2)

カイロネイアの戦いBC338年8月2日 · マケドニア側 · 総指揮フィリッポス2世暗殺BC336年 · 被害者

本文

フィリッポス2世は紀元前382年、ギリシア北部のマケドニア王アミュンタス3世の子として生まれた。当時のマケドニアは、南のギリシア人の都市国家からは半ば異民族と見られる辺境の王国で、北と西からはイリュリア人やトラキア人が攻め込み、王家の内部でも争いが絶えなかった。

10代の半ば、フィリッポスは人質として、当時ギリシアで最も強かった都市テーバイに3年ほど送られた。テーバイは紀元前371年のレウクトラの戦いでスパルタを破ったばかりで、その立役者の将軍エパメイノンダスがいた。少年は、左翼を厚くして敵の最強の部分を一気に崩す斜線陣の戦法や、精鋭部隊の鍛え方を間近に見たとされる。

レウクトラの戦いに関わる図版:Pelopidas leading the Thebans at the battle of Leuctra
レウクトラの戦いWikimedia Commons Edmund Ollier Publication date 1882 · Public domain

紀元前359年、兄の王ペルディッカス3世がイリュリア人との戦いで4000人の兵とともに戦死した。国は存亡の危機に立たされ、フィリッポスは幼い甥の摂政として、やがて自ら王として立った。23歳前後だった。彼はまず贈り物と約束で周囲の敵を一つずつ切り離して時間を稼ぎ、その間に軍を作り直した。

新しい軍の中心は、長槍を持つ密集歩兵だった。槍は5メートルを超える長さで、両手で構える。前から五列目までの槍の穂先が最前列より前に突き出し、正面からは槍の壁にしか見えない。盾は小さくして首から吊った。歩兵は農民から集め、一年中訓練させて、職業軍人に変えた。歩兵が敵を正面で受け止めている間に、王の仲間と呼ばれる貴族の重装騎兵が、敵の隊列の切れ目に突入して決着をつける。さらに攻城兵器の技術者も抱えた。この組み合わせが、のちに息子アレクサンドロス3世の東方遠征を支える武器になる。

軍を養う金は、東のパンガイオン山の金山から来た。フィリッポスは紀元前356年頃にこの地を奪って町を築き、自分の名をとってフィリッポイと名づけた。そこから掘り出される金で、兵を雇い、ギリシアの都市の政治家たちを買収した。金を積んだロバが登れないほど高い城壁は無い、と彼が言ったとプルタルコスは伝えている。紀元前354年頃、港町メトネを攻めたときには、城壁からの矢で右目を失った。

フィリッポスは、ギリシアの都市国家どうしの争いにも巧みに入り込んだ。デルフォイの聖域をめぐる戦争に介入し、紀元前346年にアテナイと和約を結んで、ギリシアの政治の表舞台に立った。アテナイの弁論家デモステネスは、彼をギリシアの自由を奪う者と見て、市民に警戒を呼びかける演説を繰り返した(デモステネスの『フィリッポス弾劾』)。激しい個人攻撃の演説を今もフィリッピクスと呼ぶのは、ここから来ている。

紀元前338年、アテナイとテーバイは同盟を結んで、マケドニアと決戦に臨んだ。ギリシア中部のカイロネイアで、フィリッポスは右翼でわざと後退してアテナイの兵を誘い出し、隊列に生じた隙に、18歳の息子アレクサンドロスの率いる騎兵が突入した(カイロネイアの戦い)。テーバイの精鋭部隊はその場で全滅したと伝えられる。この戦いで、都市国家が自らの運命を自ら決める時代は終わった。翌年、フィリッポスはスパルタを除くギリシアの諸都市をコリントスに集めて同盟を結ばせ、自らその盟主となって、ペルシアへの遠征を決議させた。名目は、150年前のペルシア戦争で神殿を焼かれた報復だった。

カイロネイアの戦いに関わる図版:Battle of Chaeronea, 338 BC
カイロネイアの戦いWikimedia Commons United States Military Academy · Public domain

私生活でも、フィリッポスは結婚を外交に使った。生涯に7度結婚したとされ、その相手は周辺の王家や有力者の娘たちだった。アレクサンドロスの母オリュンピアスは西の隣国エペイロスの王女である。息子の教育には手を抜かず、紀元前343年頃にはアリストテレスを家庭教師として招いた。だが晩年、マケドニア貴族の娘クレオパトラを新たな妻に迎えると、オリュンピアスとアレクサンドロスとの間に亀裂が入った。婚礼の宴で、花嫁の叔父が正統な世継ぎの誕生を祈ると、怒ったアレクサンドロスが杯を投げつけ、剣を抜いて息子に向かおうとしたフィリッポスは酔ってよろめき倒れた、という場面をプルタルコスが書いている。

紀元前336年、遠征軍の先発隊はすでに小アジアへ渡っていた。旧都アイガイで娘の婚礼の祝いが開かれた朝、劇場に入ったフィリッポスは、護衛の一人パウサニアスに短剣で刺されて死んだ(フィリッポス2世暗殺)。46歳だった。犯人はその場で殺され、動機は私怨だったとされる。だがオリュンピアスとアレクサンドロスが背後にいたのではないか、ペルシアが糸を引いたのではないか、という疑いは、古代から今まで消えていない。1977年、旧都アイガイにあたるヴェルギナで、豪華な副葬品を伴う王墓が見つかり、フィリッポスの墓とされた。ただし、どの墓が彼のものかについては研究者の間で論争が続いている。

準備した戦争は、20歳の息子が引き継いだ。アレクサンドロスの名声の陰に隠れがちだが、辺境の小国を、ギリシア世界を支配する軍事大国に変えたのは父のほうだった。息子が10年余りでペルシア帝国を倒せたのは、父が20年余りをかけて作った軍と金と同盟があったからである。

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