できごと

フィリッポス2世暗殺

Assassination of Philip II
BC336年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民アケメネス朝ペルシア西アフリカの穀作農民Celltic Hallsatt cultureスキタイサーミガリア諸部族カルタゴカルタゴゲルマンの諸部族ケルト系の人びとPlain-Pottery cultureクシュ王国Brushed Pottery cultureマケドニアBell-shaped burials cultureギリシア諸ポリスギリシアの植民市Milograd cultureEastern Masurian cultureブレンミュエスPomeranian cultureBC336年ペラ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC336年の版図を描いています(24勢力)。

概要

東方遠征の準備中に護衛に暗殺された。20歳のアレクサンドロスが王位を継ぐ。

場所

ペラ
40.76°N 22.52°E · ギリシア・中央マケドニア

関わった人(2)

フィリッポス2世BC382年–BC336年 · 被害者アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · 後継

本文

フィリッポス2世は、ギリシアの北の辺境の国だったマケドニアを、わずか20数年でギリシア世界の覇者に押し上げた王である。長い槍を持たせた歩兵の密集隊形と、強力な騎兵を組み合わせた軍を作り上げ、金山を開いて財を蓄え、外交と買収と武力を巧みに使い分けて領土を広げた。アテナイの弁論家デモステネスは、その脅威を繰り返し訴えた(デモステネスの『フィリッポス弾劾』)。

紀元前338年、フィリッポスはカイロネイアの戦いでアテナイとテーバイの連合軍を破った。翌年、スパルタを除くギリシアの諸都市をコリントスに集めて同盟を作らせ、自らその盟主となった。そして同盟の名のもとに、かつてギリシアに攻め込んだペルシアへの報復の遠征を決めた。紀元前336年の春には、先発隊がすでにアジアへ渡っていた。

カイロネイアの戦いに関わる図版:Battle of Chaeronea, 338 BC
カイロネイアの戦いWikimedia Commons United States Military Academy · Public domain

その一方で、王家の中には亀裂が走っていた。紀元前337年、フィリッポスは、マケドニアの貴族の娘クレオパトラを新たな妻に迎えた。マケドニアの王は何人もの妻を持つのが常だったが、この結婚は、アレクサンドロス3世とその母オリュンピアスの立場を脅かすものだった。オリュンピアスはマケドニアの外、エペイロスの王家の出であり、新しい妻は生粋のマケドニア人だったからである。

プルタルコスは、婚礼の宴でのこんな場面を伝えている。花嫁の叔父アッタロスが、この結婚から正統な跡継ぎが生まれるように、と祝杯を挙げた。怒ったアレクサンドロスは、では私は庶子だというのか、と杯を投げつけた。フィリッポスは剣を抜いて息子に向かおうとしたが、酔って足をもつれさせて倒れた。アレクサンドロスは、ヨーロッパからアジアへ渡ろうという男が、寝椅子から寝椅子へも渡れないとは、と言い放ったという。この後、アレクサンドロスと母は宮廷を離れた。のちに父子は和解したが、溝は残った。

フィリッポス2世の像(ギリシア原作のローマ時代の模刻、コペンハーゲン)
フィリッポス2世の像(ギリシア原作のローマ時代の模刻、コペンハーゲン)Wikimedia Commons Richard Mortel from Riyadh, Saudi Arabia · CC BY 2.0

紀元前336年の夏、マケドニアの古い都アイガイ(いまのギリシア北部のヴェルギナ)で、盛大な祝典が開かれた。フィリッポスの娘で、アレクサンドロスの同母の妹にあたるクレオパトラが、オリュンピアスの弟であるエペイロスの王アレクサンドロスと結婚するのである。オリュンピアスの実家との絆を結び直す縁組でもあった。

祝典の2日目の朝、人々は劇場に集まっていた。フィリッポスは、ギリシアの人々に、自分は護衛に囲まれなくても安全だという姿を見せようと、護衛たちを少し離して劇場に入った。そのとき、護衛の一人のパウサニアスが駆け寄り、隠し持っていた短剣で王を刺した。フィリッポスはその場で死んだ。46歳ほどだった。パウサニアスは用意していた馬へ逃げようとしたが、ぶどうの蔓に足を取られて倒れ、追いついた護衛たちに殺された。

ピリッポス2世の肖像が描かれた勝利の大メダル(3世紀)
ピリッポス2世の肖像が描かれた勝利の大メダル(3世紀)Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

下手人がその場で殺されたため、動機を本人の口から確かめることはできなくなった。アリストテレスやディオドロスは、個人的な恨みだったと伝えている。パウサニアスはかつてアッタロスの一味からひどい辱めを受け、王に訴えたが、王はアッタロスを罰しなかった。その恨みが王に向けられた、という説明である。

だが、古代から別の疑いもささやかれてきた。夫に冷遇されていたオリュンピアスが陰で糸を引いたのではないか、跡継ぎの座を危ぶんだアレクサンドロスも知っていたのではないか、という疑いである。オリュンピアスが、パウサニアスの遺体に冠をかぶせた、という話まで伝わる。ペルシアの王が、遠征を止めるために手を回したとする説もある。どれも決め手はなく、真相は分かっていない。

ピリッポス2世の暗殺
ピリッポス2世の暗殺Wikimedia Commons Andre Castaigne - Died 1930 · Public domain

20歳のアレクサンドロスは、ただちに軍の支持を取りつけて王位に就いた。そして、自分の地位を脅かしかねない者たちを次々に取り除いた。アジアに渡っていたアッタロスは殺され、王位を主張しうる従兄弟も処刑された。オリュンピアスは、フィリッポスの最後の妻クレオパトラと、その幼い子を死に追いやったと伝えられる。

王の死を聞いて、ギリシアの諸都市は動揺し、離反の動きが広がった。アレクサンドロスはすばやく南下して諸都市を従わせ、翌年に反乱を起こしたテーバイを攻め落とし、町を破壊して見せしめにした。そして紀元前334年、父が準備した軍を率いてヘレスポントス海峡を渡り、東へ向かった(アレクサンドロスの東方遠征)。

フィリッポス2世の黄金貨(ペラ出土)。ひげのない肖像はアレクサンドロスやアポロンに似る
フィリッポス2世の黄金貨(ペラ出土)。ひげのない肖像はアレクサンドロスやアポロンに似るWikimedia Commons Philippe II (0382?-0336 av. J.-C. ; roi de Macédoine). Autorité émettrice de monnaie présumée Alexandre lll (0356-0323 a · Public domain

1977年、ヴェルギナで、ギリシアの考古学者アンドロニコスが、荒らされていない王家の墓を発見した。金の箱に納められた遺骨と、見事な副葬品が出てきた。フィリッポスの墓だと考えられたが、別の墓こそフィリッポスのものだとする説もあり、いまも議論が続いている。

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