人物

ロクサネ

Roxana
BC340年頃 – BC310年(享年30・推定)
マケドニア重要度 3

概要

ソグドの貴族の娘で、岩の砦で捕えられ、アレクサンドロスが恋をして結婚した。王の死後に息子を産み、王の他の妻を毒殺し、息子と共にカッサンドロスに幽閉されて殺された。息子は13歳だった。

所属

マケドニア

本文

ロクサネは、紀元前4世紀の後半、中央アジアのソグディアナ(いまのウズベキスタンとタジキスタンのあたり)の有力者オクシュアルテスの娘として生まれた。名はイランの言葉で「輝く者」「小さな星」を意味するとされ、のちのペルシア語のロクサーナ、ロシャナクに通じる。生年は分からないが、紀元前340年ごろとみられている。

Alexander The Greate and Roxane by Rotari 1756
Wikimedia Commons Pietro Rotari · Public domain

紀元前330年、ペルシア帝国の王ダレイオス3世が殺されると(ダレイオス3世の死)、アレクサンドロス3世は帝国の東の端、バクトリアとソグディアナに進んだ。だがこの地の貴族たちは激しく抵抗し、アレクサンドロスは2年にわたって山と砦の戦いに苦しんだ(アレクサンドロスの東方遠征)。

紀元前327年の春、オクシュアルテスらは、家族を連れて「ソグドの岩」と呼ばれる険しい山の砦にこもった。降伏を求められた守り手たちは、翼のある兵でも連れてこなければここは落ちない、と笑ったという。アレクサンドロスは、岩登りに慣れた兵300人を募り、夜のうちに鉄の杭と綱で断崖をよじ登らせた。30人ほどが落ちて死んだが、夜明けには残りの兵が砦の上の峰に立った。翼のある兵が来た、と知らされた守り手たちは、驚いて降伏した。捕らえられた者の中に、ロクサネがいた。

アレクサンドロスとロクサネの婚礼(アンドレ・カスタン画、1898-99年)
アレクサンドロスとロクサネの婚礼(アンドレ・カスタン画、1898-99年)Wikimedia Commons André Castaigne · Public domain

アッリアノスによれば、遠征に加わった者たちは、ロクサネをダレイオスの妻の次にアジアで美しい女性だと言った。アレクサンドロスは彼女に恋をし、捕虜として扱わずに、正式に妻とした。ローマ時代の歴史家は、マケドニアの風習に従って、一つのパンを剣で二つに切り、二人で分けて食べる儀式で結婚したと書いている。この結婚には、抵抗を続けるソグディアナとバクトリアの貴族たちを味方につけるという政治の狙いもあった。実際、父のオクシュアルテスは、その後アレクサンドロスに仕えて、ヒンドゥークシュの山麓の地方の総督に任じられた。

だが、マケドニアの兵や将校の多くは、王が征服した土地の女性を正妻としたことを喜ばなかった。王がペルシア風の衣装や礼を取り入れていくことへの反感と重なって、ロクサネとの結婚は、王が「ペルシア人になった」しるしのように見られた。ロクサネはその後、インドへの遠征にも同行したとされる。インドで最初の子を産んだがすぐに死んだ、という記録もあるが、確かではない。

紀元前324年、スーサで、アレクサンドロスはダレイオスの娘スタテイラと、さらに前のペルシア王の娘パリュサティスを妻に迎え、部下の将校たちにもペルシアの貴族の娘と結婚させた(スーサの集団結婚)。ロクサネは、ペルシアの王家の血を引く二人の妃の下に置かれかねない立場になった。

スーサの集団結婚に関わる図版:The weddings at Susa, Alexander to Stateira and Hephaistion to Drypetis (late 19th century engraving)
スーサの集団結婚Wikimedia Commons Public domain

紀元前323年6月、アレクサンドロスはバビロンで死んだ(アレクサンドロスの死)。このときロクサネは身ごもっていた。将軍たちは、生まれる子が男の子なら、王の異母兄アリダイオスとともに共同の王とすることで折り合った。プルタルコスによれば、ロクサネは、王の死の直後に、スタテイラとその妹を王からの手紙だと偽って呼び寄せ、摂政ペルディッカスの黙認のもとで殺し、遺体を井戸に投げ込んだ。スタテイラが王の子を産めば、自分の子の地位が危うくなるからだった。8月ごろ、ロクサネは男の子を産んだ。アレクサンドロス4世である。

だが幼い王と母は、後継者たちの争いの中で、手駒として各地を移された(ディアドコイ戦争)。マケドニア本国に移った母子を守ったのは、アレクサンドロスの母オリュンピアスだった。紀元前316年、カッサンドロスがピュドナでオリュンピアスを降伏させて殺すと、ロクサネと息子はアンフィポリスの砦に閉じ込められ、王としての扱いを取り上げられた。紀元前310年ごろ、息子が成人に近づき、王位を求める声が高まりかねなくなると、カッサンドロスは砦の守りの責任者に命じて、母と子をひそかに殺させた。息子は13歳か14歳だった。遺体は人目につかないように葬られたという。

1977年、ギリシアの考古学者アンドロニコスは、マケドニアの古い都アイガイの跡、いまのヴェルギナで、王家の墓を掘り当てた。そのうちの一つの墓からは、13歳から16歳ほどの少年の骨が、銀の壺に納められて見つかった。この少年は、アレクサンドロス4世だと考えられている。ロクサネの骨は見つかっていない。王の妻として、王の母として、10年あまりを生きた彼女の言葉は、一つも残っていない。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC340年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →