できごと

イプソスの戦い

Battle of Ipsus
BC301年
重要度 5
イプソスの戦いに関わる図版:The Battle of Ipsus
The Battle of Ipsus Wikimedia Commons James D. McCabe · Public domain

概要

ディアドコイ戦争の決着。帝国の再統一は潰え、セレウコス朝・プトレマイオス朝・マケドニアに分かれた。

場所

イプソス位置は特定されていない(誤差 ±25km)
38.75°N 31.10°E · トルコ・アフヨンカラヒサール県

関わった人(2)

セレウコス1世BC358年頃–BC281年 · 参戦プトレマイオス1世BC367年頃–BC282年 · 連合の一員(戦場には来ていない)

本文

紀元前323年、アレクサンドロス3世は32歳でバビロンに死んだ(アレクサンドロスの死)。後継者をはっきり決めないままだった。ギリシアからインダス川に及ぶ帝国は、王の将軍たちの手に委ねられる。彼らはディアドコイ(後継者たち)と呼ばれ、帝国の分け前をめぐって40年にわたって争った(ディアドコイ戦争)。

最初は、名目上の王を立てて帝国を一つに保とうとする動きがあった。だが摂政たちは次々に殺され、王の血を引く者たちも、王の異母兄弟、母、妻、遺児と、一人残らず命を落とした。そうした中で最も大きな力を持ったのが、片目を失っていたことから「隻眼」と呼ばれた老将アンティゴノスだった。小アジアを本拠に、シリアやメソポタミアまで勢力を広げ、帝国のほぼ全体を一人で継ごうとした。

イプソスの戦い前の後継者王国、紀元前303年
イプソスの戦い前の後継者王国、紀元前303年Wikimedia Commons Javierfv1212 ( talk ) · Public domain

紀元前306年、アンティゴノスの息子デメトリオスがキプロス沖の海戦で大勝すると、アンティゴノスは息子とともに王を名乗った。他の将軍たちもこれに倣って次々に王を称し、帝国は名実ともに分かれはじめる。デメトリオスは「攻城者」と呼ばれた将軍で、巨大な攻城塔を造って各地の町を囲んだ。紀元前305年から1年にわたってロドス島を攻めたが落とせず、ロドスの人々は残された攻城兵器を売った金で、太陽神ヘリオスの巨大な像を建てたと伝えられる。

アンティゴノス父子の勢いを恐れた残りの4人、マケドニアのカッサンドロス、トラキアのリュシマコス、東方のセレウコス1世、エジプトのプトレマイオス1世は手を結んだ。セレウコスは、東方を固めるためにインドで台頭したマウリヤ朝のチャンドラグプタと講和し、インダス川流域の領土を譲る代わりに、500頭ともいわれる戦象を手に入れていた。

イプソスの戦いの配置図、紀元前301年
イプソスの戦いの配置図、紀元前301年Wikimedia Commons Javierfv1212 ( talk ) · Public domain

紀元前301年、両軍は小アジアの内陸、フリュギアのイプソスで激突した。プルタルコスによれば、アンティゴノス側は歩兵7万、騎兵1万、象75頭。同盟軍は歩兵6万4千、騎兵1万あまり、象400頭、戦車120台だったという。数字はそのまま信じられないにしても、象の数で大きく差がついていたことは確かだろう。エジプトのプトレマイオスは、この決戦に加わっていない。アンティゴノスが勝ったという誤った知らせを聞いて、シリアから兵を引いてしまったとされる。

戦いは、デメトリオスの騎兵の突撃で始まった。デメトリオスはセレウコスの息子アンティオコスの騎兵を打ち破り、勢いに乗って遠くまで追った。ところが、戻ろうとしたとき、その前にセレウコスの象の群れが壁のように立ちはだかった。馬は象を恐れて近づけない。騎兵は本隊へ戻れなくなった。

セレウコス1世のブロンズ像(ナポリ国立考古学博物館)
セレウコス1世Wikimedia Commons Allan Gluck · CC BY 4.0

騎兵の守りを失ったアンティゴノスの歩兵は、同盟軍の騎兵に囲まれ、矢を浴びせられた。戦意を失って同盟軍に投降する者も出た。アンティゴノスはその場を動かず、息子が助けに来ると最後まで言い続けたと伝えられる。やがて投げ槍を受けて倒れた。80歳を超えていた。デメトリオスは残った兵を連れて逃れた。

デメトリオスはその後も浮き沈みの激しい生涯を送った。艦隊を頼りに勢力を立て直し、紀元前294年には一時マケドニアの王位にまで就いた。だが再び帝国を夢見て大軍を集めたところで見放され、最後はセレウコスに捕らえられて、幽閉の中で酒に溺れて死んだとプルタルコスは書いている。

Ptolemy I Soter Louvre Ma849
プトレマイオス1世Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

帝国の再統一は、これで潰えた。勝った側は、アンティゴノスの領土を分け合った。リュシマコスは小アジアの大半を、セレウコスはシリアを得た。戦わなかったプトレマイオスは、その間にシリア南部を押さえており、この土地をめぐってセレウコスの子孫とプトレマイオスの子孫は、その後100年以上にわたって何度も戦うことになる。

勝者たちの協力も長くは続かなかった。紀元前281年、セレウコスはリュシマコスを討ったが、まもなく自分も暗殺された。マケドニアの王位は奪い合いが続いた末、デメトリオスの息子アンティゴノス2世が固める。こうして、アジアのセレウコス朝、エジプトのプトレマイオス朝、そしてマケドニアのアンティゴノス朝という三つの大きな王国が並び立った。

イプソスは、その形を決めた戦いだった。ギリシア語を話す王と役人が、エジプトからメソポタミアまでの土地を治め、各地にギリシア風の町が建てられる。ヘレニズム世界という枠が、ここで骨組みを得た。三つの王国は互いに争いながら、それぞれ百年から三百年続き、最後はどれもローマに呑み込まれることになる。

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