できごと

アレクサンドロスの死

Death of Alexander
BC323年6月10日(11日説あり)
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民コイサンサハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民マケドニア西アフリカの穀作農民アレクサンドロスの帝国ヒンドゥーの諸王国と共和国マガダガリア諸部族カルタゴシャンシュン王国カルタゴメロエPlain-Pottery cultureエチオピア高原の農民Brushed Pottery cultureカッパドキアカタバーンBell-shaped burials cultureアトロパテネMilograd cultureヒンドゥーの諸王国ハドラマウトアルメニアEastern Masurian cultureボスポロス王国ギリシア諸ポリスブレンミュエスサバア王国Pomeranian cultureシンハラBC323年6月10日(11日説あり)バビロン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC323年6月10日(11日説あり)の版図を描いています(32勢力)。

概要

バビロンで32歳で没した。後継者を定めなかったため、帝国は将軍たちの争いに入る。

場所

バビロン
32.54°N 44.42°E · イラク・バービル県

関わった人(1)

アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · 当人

本文

紀元前324年の秋、アレクサンドロスは最も親しい友ヘファイスティオンを病で失った。王は何日も食事をとらず、遺体のそばを離れなかったと伝えられる。その悲しみから立ち直りきらないまま、翌年の春、王はバビロンに入った。次の目標はアラビア半島で、艦隊の準備が進められていた。

晩年の王は、征服した帝国をどうまとめるかに苦心していた。インドからの帰路、ゲドロシアの砂漠で多くの兵を失ったあと、王はスサでマケドニアの将校たちとペルシアの貴族の娘たちとの合同の結婚式を挙げさせ、自分もペルシア王家の娘を妻に迎えた。ペルシアの若者を3万人集めてマケドニア式に訓練させもした。古参のマケドニア兵たちは、自分たちが用済みにされるのではないかと怒り、オピスで反抗した。王は彼らを罵り、ペルシア人を重用すると脅して屈服させたあと、和解の宴を開いた。征服者と征服された者を一つにするという考えが、本心の理想だったのか、広すぎる帝国を治めるための現実の策だったのかは、いまも見方が分かれる。

去っていく者たちに目を向けようとするアレクサンドロス3世
去っていく者たちに目を向けようとするアレクサンドロス3世Wikimedia Commons Walter Crane · Public domain

5月の終わり、友人メディオスの宴で夜遅くまで飲んだあと、王は熱を出した。プルタルコスとアリアノスは、王の日々の記録とされる「王の日誌」を引いて、その後の経過を伝えている。熱は下がらず、王はそれでも数日は寝台から指示を出し、犠牲を捧げ、将軍たちと遠征の相談をした。やがて口がきけなくなった。王が死んだという噂が広まると、兵たちが宮殿に押しかけ、一人ずつ寝台の前を通った。王は声を出せず、頭を少し上げ、目で一人一人に応えたという。

そして紀元前323年6月10日、あるいは11日に死んだ。発熱してから10日ほどで、32歳だった。13年に満たない治世で、ギリシアからインダス川までを手にした王である。

アレクサンドロス3世に毒を盛る様子。15世紀の物語『アレクサンドルの戦いの歴史』(The History of Alexander’s Battles, J1 version. NLW MS Pen.481D)より。
アレクサンドロス3世に毒を盛る様子。15世紀の物語『アレクサンドルの戦いの歴史』(The History of Alexander’s Battles, J1 version. NLW MS Pen.481D)より。Wikimedia Commons Unknown Flemish artist · CC0

死因は分かっていない。マラリア、腸チフス、長年の深酒による膵炎や肝臓の病、遠征で受けた傷の影響などが挙げられてきた。2014年には、ヴェラトルム属の有毒植物で作った酒による中毒とする説が出され、2018年には、プルタルコスが伝える「死後何日も遺体が傷まなかった」という記述をもとに、神経の病で体が麻痺した状態を死と見誤ったのではないかとする説まで出た。どれも、2000年以上前の記録から推し量るしかない。

毒殺の噂は、死の直後からあった。マケドニア本国を預かっていた老将アンティパトロスが王に疎まれていたこと、その息子が王の酌をする役だったことが、疑いを呼んだ。王の師だったアリストテレスが毒を用意したという噂まで流れたと、プルタルコスは書き留めている。ただし彼自身、これを作り話と見ている。噂の多くは、その後の後継者争いの中で、相手を貶めるために広められた可能性がある。

シャー・ナーメ中の「イスカンダルの葬式」。アレクサンドロス3世の生涯と死を、ペルシア帝国全土の君主として詳述している。
シャー・ナーメ中の「イスカンダルの葬式」。アレクサンドロス3世の生涯と死を、ペルシア帝国全土の君主として詳述している。Wikimedia Commons Ferdowsi · CC0

問題は、後継者を定めなかったことになる。死の床で指輪を将軍ペルディッカスに渡したと伝えられるが、それが何を意味したのかははっきりしない。「誰に帝国を渡すのか」と聞かれ、「最も強き者に」と答えたとも伝わる。本当にそう言ったのかは分からない。言ったとすれば、それは後の争いをそのまま言い当てている。

王の書類の中からは、壮大な「最後の計画」が見つかったと、ディオドロスは伝える。カルタゴをはじめ地中海の西への遠征、そのための大艦隊、アジアとヨーロッパのあいだで人を移り住ませる計画、父フィリッポスのための巨大な墓。将軍たちはこれを兵士の集会にかけ、費用がかかりすぎるとして取りやめさせた。この計画が本物かどうかにも議論があるが、王が死の直前まで次の遠征を考えていたことは確かである。

イスカンダル(アレクサンドロス)の葬式。棺に紋織の絹布がかけられ、彼のターバンが端に載せられている。ニザーミーの版では、イスカンダルはバビロンの近くで病に倒れ、死んだことになっている。彼は毒を盛られたと信じられたため、何によっても彼を生き返らせることはできなかった、と述べられている。
イスカンダル(アレクサンドロス)の葬式。棺に紋織の絹布がかけられ、彼のターバンが端に載せられている。ニザーミーの版では、イスカンダルはバビロンの近くで病に倒れ、死んだことになっている。彼は毒を盛られたと信じられたため、何によっても彼を生き返らせることはできなかった、と述べられている。Wikimedia Commons Made by Salím Quli · Public domain

王の死後、バビロンでは将軍たちと兵士たちがぶつかった。騎兵を率いる貴族たちは、妊娠中だった妻ロクサネの子が生まれるのを待とうとした。歩兵たちは、フィリッポス2世の子で王の異母兄にあたるアリダイオスを推した。妥協の結果、アリダイオスとロクサネの生む子の二人が王となり、ペルディッカスが後見する形になった。生まれた子は男で、アレクサンドロス4世と呼ばれる。だがどちらの王も実権を持たず、異母兄は紀元前317年に殺され、子も13年後の紀元前310年ごろ、まだ少年のうちに母とともに殺される。

将軍たちが争った。ディアドコイ戦争と呼ばれ、40年ほど続く。最後に残ったのは、エジプトのプトレマイオス1世、アジアのセレウコス1世、そしてマケドニア本国を押さえたアンティゴノスの家系だった。大帝国は三つの王国に割れ、ギリシアの言葉と文化を各地に残したまま、やがて東のパルティアと西のローマに呑まれていく。

アレクサンドロス大王の像
アレクサンドロス大王の像Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

遺体は、豪華な霊柩車に乗せられ、2年ほどの準備ののちバビロンを出た。行き先はマケドニアだったとされるが、王の望みとしてエジプトのシワのオアシスに葬る計画もあったともいい、はっきりしない。途中、シリアでプトレマイオスがこれを奪い、エジプトへ運んだ。王の遺体を持つことは、後継者としての正しさを示すことでもあった。遺体はやがて、王自身が建設を命じたアレクサンドリアに葬られた(アレクサンドリア建設)。

その墓には、ローマの初代皇帝アウグストゥスも訪れている。だが4世紀ごろを境に記録から消え、墓は失われている。場所を突き止めたという発表はこれまで何度もあったが、どれも確かめられていない。

出典(1)

アッリアノス 『アレクサンドロス大王東征記』第7巻 24–28

同じ時代のできごと

カイロネイアの戦いBC338年8月2日フィリッポス2世暗殺BC336年ディオゲネスとアレクサンドロスBC336年テーバイの破壊BC335年グラニコス川の戦いBC334年5月アレクサンドロスの東方遠征BC334年イッソスの戦いBC333年11月ゴルディオンの結び目BC333年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC323年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →