人物

ヘファイスティオン

Hephaestion
BC356年頃 – BC324年(享年32・推定)
マケドニア重要度 3

概要

アレクサンドロスの幼なじみで、最も近い友。ダレイオスの母が王と間違えて拝んだとき、王は「この人も私だ」と言った。エクバタナで病死し、王はその8か月後に死ぬ。

所属

マケドニア

関わったできごと(1)

ヘファイスティオンの死BC324年 · 死んだ

本文

ヘファイスティオンは紀元前356年ごろ、マケドニアの貴族アミュントルの子として生まれた。同じ年に生まれた王子アレクサンドロス(アレクサンドロス3世)とは幼なじみで、共に宮廷で育った。哲学者アリストテレスがミエザで王子を教えたとき、ヘファイスティオンも一緒に学んだとされる。アリストテレスがヘファイスティオンに宛てた手紙があったことが、古代の目録に記されている。

ヘファイスティオンの頭部像
ヘファイスティオンの頭部像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

二人の結びつきは、ホメロスの『イリアス』のアキレウスとパトロクロスになぞらえられた。紀元前334年、アジアへ渡った遠征軍がトロイアの遺跡に立ち寄ったとき、アレクサンドロスはアキレウスの墓に、ヘファイスティオンはパトロクロスの墓に花の冠を捧げた、と伝えられる。二人が恋人どうしだったかどうかは、古代の作家ははっきり書いておらず、いまも議論がある。

紀元前333年、イッソスの戦いでペルシア王ダレイオス3世は敗れて逃げ、その母シシュガンビスと妃、子どもたちはマケドニア軍の陣中に残された。翌日、アレクサンドロスはヘファイスティオンを連れて彼女たちの天幕を訪ねた。二人は同じような服を着ていたが、ヘファイスティオンのほうが背が高く、見栄えがした。シシュガンビスは彼を王と思い込んでその前にひれ伏した。周りの者に間違いを教えられ、彼女はうろたえて詫びた。アレクサンドロスは、間違いではない、この人もアレクサンドロスなのだから、と言った。アッリアノスはこの話を、そう伝えられている、と断ったうえで記している。

イッソスの戦いに関わる図版:Battle of Issus mosaic - Museo Archeologico Nazionale - Naples 2013-05-16 16-25-06 BW
イッソスの戦いWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ヘファイスティオンが軍の中で大きな役目を担うようになるのは、遠征の後半である。紀元前330年、親衛の騎兵隊の指揮が二人に分けられ、その一人に任じられた。インドへの進軍では、本隊に先立ってインダス川に橋をかけ、道を開き、新しい町を建てる仕事を任された。戦場で目立つ勝利を挙げる将軍ではなかったが、兵站と組織の才に長けていたと見る研究者が多い。

アレクサンドロスは、征服したペルシアの人びとを取り込むため、ペルシア風の衣服や宮廷の儀礼を取り入れていった。マケドニアの古参の将兵の多くはこれに反発したが、ヘファイスティオンは王の方針を最も強く支持した。そのため、古参の将軍たちとの対立が絶えなかった。

『イッソスの戦い』アルトドルファー画(1529年)
『イッソスの戦い』アルトドルファー画(1529年)Wikimedia Commons Public domain

とりわけ、マケドニアの伝統を重んじる将軍クラテロスとは激しく反目した。インドで二人が剣を抜いて斬り合いになりかけたとき、アレクサンドロスは双方を叱りつけた。プルタルコスによれば、王はふだんから、ヘファイスティオンはアレクサンドロスを愛する者、クラテロスは王を愛する者だ、と言っていたという。個人としての自分に寄り添う友と、王としての自分に仕える臣下という区別である。王の書記官から将軍になったエウメネスとも、宿舎の割り当てをめぐって争っている。

紀元前324年、スーサで、アレクサンドロスとその側近たちがペルシアの貴族の娘たちと一斉に結婚する儀式が行われた(スーサの集団結婚)。アレクサンドロスはダレイオスの娘スタテイラを、ヘファイスティオンはその妹ドリュペティスを妻に迎えた。王は、二人の子どもがいとこどうしになることを望んだ、とアッリアノスは書いている。この頃ヘファイスティオンは千人隊長の位に就いた。ペルシアの宮廷で王に次ぐ地位にあたるもので、事実上、帝国の第二の人物になった。

スーサの集団結婚に関わる図版:The weddings at Susa, Alexander to Stateira and Hephaistion to Drypetis (late 19th century engraving)
スーサの集団結婚Wikimedia Commons Public domain

その年の秋、メディアの古都エクバタナで、祭りの競技と宴が続くなか、ヘファイスティオンは熱病に倒れた(ヘファイスティオンの死)。病は数日で快方に向かったように見えた。プルタルコスによれば、医者が劇場に出かけて目を離したすきに、ヘファイスティオンは煮た鶏を丸ごと平らげ、冷やした酒を大きな器で飲んだ。容体は急変し、まもなく死んだ。

アレクサンドロスの嘆きは激しかった。遺体のそばに伏して離れず、数日食べ物を口にしなかった。自分の髪を切り、軍馬のたてがみを切らせ、医者を磔にしたという。エジプトのシーワのアモン神の神託に使者を送って、ヘファイスティオンを神として祀ってよいかを尋ね、英雄として祀ることを許された。バビロンでは、1万タラントンを費やす巨大な火葬の台が計画されたと伝えられる。古代の作家たちの記述には誇張もあるとみられるが、王の悲嘆が尋常でなかったことは一致している。

ヒュダスペス川の戦いでのアレクサンドロスとポロス王(シャルル・ル・ブラン画)
ヒュダスペス川の戦いでのアレクサンドロスとポロス王(シャルル・ル・ブラン画)Wikimedia Commons Charles Le Brun · Public domain

ヘファイスティオンの死から8か月ほど後の紀元前323年6月、アレクサンドロス自身もバビロンで熱病に倒れ、死んだ(アレクサンドロスの死)。帝国の第二の位にあった男と、帝国の主が相次いで世を去り、後継者たちの争いが始まった。ヘファイスティオンが生きていれば帝国の行方は違っていたか、という問いは、答えの出ないまま語られ続けている。

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