人物

オリュンピアス

Olympias
BC375年頃 – BC316年(享年59・推定)
マケドニア重要度 3

概要

アレクサンドロスの母。蛇を飼い、夫フィリッポスの暗殺に関わったと疑われた。息子の死後、後継争いで孫を守ろうとして敗れ、殺された兵の遺族に石で打たれた。

所属

マケドニア

関わったできごと(1)

ディアドコイ戦争BC322年 · 殺された

本文

オリュンピアスは紀元前375年ごろ、ギリシア北西部のエペイロスに生まれた。モロッソイ人の王ネオプトレモスの娘で、王家はトロイア戦争の英雄アキレウスの子孫を名乗っていた。オリュンピアスという名は、のちに名乗ったもので、若いころは別の名で呼ばれていたとプルタルコスは伝えている。

オリュンピアスを誘惑するゼウス(ジュリオ・ロマーノによるフレスコ画、パラッツォ・デル・テ)
オリュンピアスを誘惑するゼウス(ジュリオ・ロマーノによるフレスコ画、パラッツォ・デル・テ)Wikimedia Commons Giulio Romano · Public domain

プルタルコスによれば、彼女はエーゲ海北部のサモトラケ島の秘儀に入信したとき、まだ若いフィリッポス2世と出会った。紀元前357年ごろ、二人は結婚した。マケドニアとエペイロスの同盟を固める政略の結婚でもあった。翌年、男子が生まれた。のちのアレクサンドロス3世である。

オリュンピアスについて古代の作家たちが好んで書いたのは、その激しい気性と、神秘的な信仰だった。彼女はディオニュソスの熱狂的な祭儀にのめり込み、祭りでは大きな蛇を手なずけて連れ歩いた、とプルタルコスは書く。寝台に蛇が横たわっていたのを見て、フィリッポスは妻を遠ざけるようになった、という話もある。アレクサンドロスの本当の父は人間ではなく神ゼウスだという噂も、彼女のまわりから出たとされる。どこまでが事実で、どこからが後の伝説なのかは分からない。古代の作家の多くは、彼女に好意的ではなかった。

幼いアレクサンドロスをアリストテレスに引き合わせるオリンピアス(ヘラルト・フート画、1733年以前)
幼いアレクサンドロスをアリストテレスに引き合わせるオリンピアス(ヘラルト・フート画、1733年以前)Wikimedia Commons Gerard Hoet · Public domain

フィリッポスは、マケドニアの王の習いどおり、何人もの妻を迎えた。オリュンピアスはそのなかで後継ぎの母として重んじられたが、紀元前337年、王はマケドニアの名門の娘クレオパトラを新しい妻に迎えた。婚礼の宴で、花嫁の叔父アッタロスが、この結婚から正統な後継ぎが生まれますように、と杯を挙げた。外国生まれの母を持つアレクサンドロスへのあてこすりである。アレクサンドロスは怒って杯を投げつけ、剣を抜いて立ち上がったフィリッポスは酔ってよろめき倒れた。オリュンピアスはエペイロスの兄のもとへ、アレクサンドロスは北のイリュリアへ去った。

紀元前336年、フィリッポスは娘の婚礼の祝いの場で、護衛の一人パウサニアスに刺し殺された(フィリッポス2世暗殺)。暗殺の動機には、パウサニアス個人の恨みが挙げられている。だがオリュンピアスがそれを後押ししたのではないかという疑いは、当時からあった。ローマ時代の歴史家ユスティヌスは、オリュンピアスが磔にされた暗殺者の遺体に黄金の冠をかぶせた、と書いている。確かな証拠は無く、真相は分からない。

「カッサンドロスとオリンピアス」(ジャン=ジョゼフ・タイヤソン画)
「カッサンドロスとオリンピアス」(ジャン=ジョゼフ・タイヤソン画)Wikimedia Commons Jean-Joseph Taillasson · Public domain

アレクサンドロスが王になると、フィリッポスの最後の妻クレオパトラと、その幼い娘は殺された。オリュンピアスが手を下したと古代の記録は伝える。アッタロスもアレクサンドロスの命で殺された。

アレクサンドロスがアジアへ遠征に出ると、オリュンピアスは本国に残り、摂政アンティパトロスと激しく対立した。互いに遠征中の王へ相手を非難する手紙を送り続けた。王は母を大切にしたが、政治を委ねはしなかった。アンティパトロスが母を非難する長い手紙を送ってきたとき、王は、母の涙一粒がこんな手紙一万通を消してしまうことを彼は知らない、と言ったとプルタルコスは伝える。やがてオリュンピアスはエペイロスへ戻った。

紀元前323年、アレクサンドロスがバビロンで死んだ(アレクサンドロスの死)。後継ぎは、知的な障害があったとされる異母兄フィリッポス3世と、死後に生まれた息子アレクサンドロス4世だった。その母は、遠征のさなかに王が迎えた中央アジアの女性ロクサネである。将軍たちの争いが始まると(ディアドコイ戦争)、オリュンピアスは孫を守ることに残る力を注いだ。

紀元前317年、オリュンピアスは軍を率いてマケドニアへ攻め入った。迎え撃つフィリッポス3世の軍は、アレクサンドロスの母の姿を見ると戦わずに寝返った。オリュンピアスはフィリッポス3世を殺させ、その妃エウリュディケには自ら命を絶たせた。さらに、敵対したアンティパトロスの子カッサンドロスの一派の者を100人ほど処刑した。

その苛烈さが、支持を失わせた。カッサンドロスはすぐに軍を返し、オリュンピアスと孫、ロクサネが立てこもるピュドナを包囲した。冬の包囲で城内は飢え、紀元前316年、オリュンピアスは降伏した。カッサンドロスはマケドニアの人びとの集会で彼女を裁かせ、死刑と決めさせた。兵たちはアレクサンドロスの母に手をかけることをためらったとも言われる。最後は、彼女に殺された人びとの遺族が彼女を殺した。石で打ち殺されたとする記録もある。60歳前後だった。

オリュンピアスを守る者がいなくなり、孫のアレクサンドロス4世とロクサネはカッサンドロスの手に落ちた。数年のうちに二人とも殺され、フィリッポスとアレクサンドロスの血筋は絶えた。

古代の作家たちは、オリュンピアスを嫉妬深く残酷な女として描いた。いまの研究者の中には、マケドニアの王家で後継ぎの母が生き残るには、それだけの激しさが必要だったと見る人もいる。夫を失い、息子を失い、孫を守ろうとして倒れた。その一生は、アレクサンドロスの帝国がどのように始まり、どのように崩れたかと重なっている。

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