グラニコス川の戦い

概要
アジアに渡って最初の会戦。渡河しながらの突撃でペルシアの太守軍を破った。
場所
40.28°N 27.15°E · トルコ・チャナッカレ県(戦場の位置は特定されていない)
関わった人(1)
アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · マケドニア側 · 総指揮本文
紀元前334年の春、22歳のアレクサンドロス3世は、マケドニアとギリシア諸都市の兵を率いてヘレスポントス(いまのダーダネルス海峡)を渡り、アジアへ入った(アレクサンドロスの東方遠征)。兵はおよそ歩兵3万2000、騎兵5000と伝えられる。ペルシア帝国への遠征は、父フィリッポス2世が計画し、暗殺によって果たせなかったものだった。上陸したアレクサンドロスは、まず伝説の都トロイアを訪ね、祖先と仰ぐ英雄アキレウスの墓に花冠を捧げたという。自分を叙事詩の英雄に重ねる、計算された演出でもあった。
迎え撃ったのは、ダレイオス3世の大王本人ではなく、小アジア西部を治める太守たちだった。会議の席で、ペルシアに仕えるギリシア人傭兵の将メムノンは、正面から戦わず、土地を焼き払って補給を断ち、敵が飢えて引き返すのを待つべきだと説いた。しかし太守たちは、自分の治める土地を焼くことを拒み、決戦を選んだ。ペルシア軍は、マルマラ海に注ぐグラニコス川の東岸に陣を敷いた。騎兵を川岸に並べ、ギリシア人傭兵の歩兵をその後ろに置いた。

マケドニア軍が川に着いたのは、日が傾きかけたころだった。歴史家アリアノスによれば、老練な将軍パルメニオンは、川は深く、対岸は急で、隊列を乱したまま渡れば危ない、夜のうちに陣を張り、明け方に渡るべきだと進言した。アレクサンドロスは、ヘレスポントスを渡った者がこんな小川にひるんでは恥だと答え、その場で攻撃を命じたという。ただし別の歴史家ディオドロスは、翌朝の夜明けに抵抗を受けずに渡ったと書いており、どちらが事実に近いかは議論がある。
戦いは、まず一部の騎兵と歩兵が川に入り、ペルシアの騎兵を引きつけるところから始まった。続いてアレクサンドロス自身が、白い羽根飾りの兜で目立つ姿のまま、精鋭の騎兵を率いて斜めに川を渡り、敵の騎兵の中へ突っ込んだ。川岸の斜面で、騎兵どうしの激しい乱戦になった。アレクサンドロスは槍が折れると別の槍を受け取り、大王の娘婿ミトリダテスを討ち取った。そこへ別のペルシア貴族が斬りかかって兜を割り、さらに太守スピトリダテスが背後から刀を振り上げた。その腕を切り落として王を救ったのが、乳母の兄弟でもあった騎兵隊長クレイトスである。

ペルシアの騎兵は、指揮官の多くを失って崩れた。後ろに控えていたギリシア人傭兵は、ほとんど戦わないうちに取り残され、降伏を申し出たが、アレクサンドロスはこれを許さず、包囲して皆殺しに近い損害を与えた。生き残った2000人ほどは、ギリシア人でありながらギリシアに背いた者として、鎖につながれてマケドニアへ送られた。マケドニア側の死者はわずかだったとされ、アレクサンドロスは戦死した騎兵25人の銅像を彫刻家リュシッポスに作らせ、故国に立てた。
戦いの後、アレクサンドロスはペルシア兵から奪った300組の甲冑をアテナイへ送り、アクロポリスの女神アテナに捧げさせた。そこには、フィリッポスの子アレクサンドロスとギリシア人が、ラケダイモン人を除いて、アジアに住む異民族から奪った、と刻まれていた。ギリシア人の連合の遠征であることを強調しつつ、それに加わらなかったスパルタ(ラケダイモン)を名指しで外した一文である。
勝利の効果は大きかった。リュディアの都サルディスは戦わずに城門を開き、小アジアのギリシア人の都市は次々にペルシアの支配から離れた。メムノンはなおエーゲ海で抵抗を続けたが、翌年に病死する。アレクサンドロスは小アジアを南へ進み、翌年、ついにダレイオス3世本人の軍とイッソスの戦いで相まみえることになる。

グラニコスの戦いは、大胆な決断と、王自ら先頭に立つ戦い方という、アレクサンドロスの戦の特徴がはっきりと現れた最初の会戦だった。それは同時に、王が命を落としかねない危うさでもあった。命の恩人クレイトスは、6年後の紀元前328年、中央アジアのマラカンダでの宴の席で王を批判し、酔った王自身の槍で殺されることになる(クレイトスの殺害)。