できごと

ヘファイスティオンの死

Death of Hephaestion
BC324年
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC324年の版図を描いています(28勢力)。

概要

王の最も近い友が、熱病で死んだ。王は数日食事を取らず、医者を磔にし、バビロンに巨大な葬儀の塔を命じた。その8か月後に王自身が死ぬ。

場所

エクバタナ
34.80°N 48.51°E · イラン・ハマダーン

関わった人(2)

ヘファイスティオンBC356年頃–BC324年 · 死んだアレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · 悼んだ

本文

ヘファイスティオンは、アレクサンドロス3世と同じ年頃で、少年の頃から王のそばにいた。マケドニアの貴族の子で、ともにアリストテレスに学んだとも言われる。アレクサンドロスの東方遠征では騎兵を率い、補給や架橋、都市の建設といった仕事を任された。戦場の勇者というより、王の考えを形にする実務の人だった。

二人の近さを伝える話が残っている。イッソスの戦い(イッソスの戦い)のあと、捕らえられたダレイオス3世の母が、背が高く立派な身なりのヘファイスティオンを王と思い違えて、その前にひれ伏した。間違いに気づいて恐れる母に、王は、気にすることはない、この男もアレクサンドロスなのだから、と言ったと伝えられる。二人が恋人どうしだったと見る研究者は多いが、同時代の史料でそう書いたものは残っておらず、議論が続いている。

イッソスの戦いに関わる図版:Battle of Issus mosaic - Museo Archeologico Nazionale - Naples 2013-05-16 16-25-06 BW
イッソスの戦いWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

紀元前324年の春、スーサで王は、マケドニアの将兵とペルシアの貴族の娘たちとの合同の婚礼を開いた。王自身はダレイオス3世の娘を娶り、ヘファイスティオンにはその妹を与えた。王は、二人の子が従兄弟どうしになることを望んだと伝えられる。この頃ヘファイスティオンは千人隊長の位にあり、王に次ぐ地位にいた。古参の将軍たちとはしばしば衝突し、王が間に入ってなだめたこともある。

その年の秋、王の一行はメディアの古都エクバタナにいた。祭りが催され、競技と演劇が続き、酒宴が重ねられていた。

ヘファイスティオンの頭部像
ヘファイスティオンの頭部像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ヘファイスティオンが熱を出した。プルタルコスの伝記によれば、医者は食事を控えるよう命じていたが、医者が劇場へ出かけた隙に、彼は煮た鶏を食べ、冷やした酒を大量に飲んだという。

7日目。少年たちの競技を見ていた王のもとに、容体が急に悪くなったという知らせが届いた。王は駆けつけたが、着いたとき、ヘファイスティオンはもう死んでいた。

『イッソスの戦い』アルトドルファー画(1529年)
『イッソスの戦い』アルトドルファー画(1529年)Wikimedia Commons Public domain

王の嘆きは、伝記作家たちが書き留めるほど激しかった。アッリアノスは、王が遺体の上に身を投げて一日中泣き続け、側近に力ずくで引き離されるまで離れなかった、という記述を伝えている。王は3日のあいだ食事を取らず、自分の髪を切った。ギリシアの英雄アキレウスが友パトロクロスの死を悼んで髪を切ったのにならったのだろう、とアッリアノスは書く。

王の怒りは、周りにも向いた。治療にあたった医者グラウコスは磔にされた。プルタルコスは、王が馬やラバのたてがみを刈らせ、近くの町々の城壁の胸壁を取り壊させたと書く。エクバタナの医神の神殿を壊させたという話もあるが、アッリアノス自身は、それは王らしくないとして疑っている。古代の伝記作家たちは、それぞれ違う史料に拠っていて、どこまでが事実か見分けにくい。

ヒュダスペス川の戦いでのアレクサンドロスとポロス王(シャルル・ル・ブラン画)
ヒュダスペス川の戦いでのアレクサンドロスとポロス王(シャルル・ル・ブラン画)Wikimedia Commons Charles Le Brun · Public domain

王は、ヘファイスティオンの率いていた騎兵隊の名をそのまま残し、その後任を置かなかった。遺体はバビロンへ運ばせ、そこで前例のない葬儀を命じた。ディオドロスは、高さ130ペキュス(約60メートル)の段を重ねた火葬壇に、1万2千タラントンが費やされたと書く(プルタルコスは1万タラントンとする)。その飾りは、船の舳先、松明、狩りの場面、ケンタウロスの像と、段ごとに違ったという。ただ、これほどのものが本当に完成したのかどうかは、研究者のあいだで議論がある。

王はさらに、エジプトのシーワのアンモンの神託に使いを送り、ヘファイスティオンを神として祀ってよいか尋ねた。神託は、神ではなく英雄として祀るよう答えたとされる。冬には、山地のコッサイオイ人を攻めて住民を討ち、それを死者への捧げものにしたとプルタルコスは書いている。

アレクサンドロスの前のダレイオス家族、スステルマンス画。ヘファイスティオンがアレクサンドロスを指し示す
アレクサンドロスの前のダレイオス家族、スステルマンス画。ヘファイスティオンがアレクサンドロスを指し示すWikimedia Commons Justus Sustermans · Public domain

その8か月ほど後の紀元前323年6月、王自身がバビロンで熱を出し、32歳で死ぬ(アレクサンドロスの死)。友を失ってから、王が深酒を重ね、気が荒れていたことを、その死と結びつける見方もある。帝国の後を誰に託すかという問いに、最も信頼していた男はもういなかった。王の死後、将軍たちは帝国を奪い合うことになる。

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