できごと

クレイトスの殺害

Murder of Cleitus
BC328年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民匈奴マケドニアオーストロアジア系の稲作民Proto-Tibetan culturesCelltic Hallsatt cultureヒンドゥーの諸王国スキタイ周の諸侯国サーミ原アルタイ系の牧畜民Proto-Thai culturesシャンシュン王国マガダPlain-Pottery cultureクシュ王国Brushed Pottery cultureBell-shaped burials cultureギリシア諸ポリスギリシアの植民市Milograd cultureEastern Masurian cultureブレンミュエスBC328年サマルカンド
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC328年の版図を描いています(26勢力)。

概要

グラニコスで王の命を救った将軍が、酒の席で「あなたの功はフィリッポスのおかげ」と言った。王は槍で刺した。それから三日、食べずに泣いた。マケドニア人の王か、ペルシアの大王か。その裂け目が、人を殺した。

場所

サマルカンド
39.63°N 66.97°E · ウズベキスタン

本文

紀元前328年の秋、アレクサンドロス3世は、中央アジアのソグディアナの町マラカンダ、いまのサマルカンドにいた。ガウガメラの戦いでペルシアの大軍を破り、逃げたダレイオス3世がその臣下に殺されてから、もう2年近くがたっていた。ペルシア帝国は倒れたはずなのに、この北東の辺境では、スピタメネスに率いられた土地の人々の抵抗が続き、マケドニア軍は終わりの見えない戦いに疲れていた。

遠征の中で、王は変わりつつあった。征服した土地を治めるために、ペルシアの貴族を総督に取り立て、ペルシア風の衣装を身につけ、宮廷にペルシアの作法を取り入れた。王はまた、エジプトの砂漠のアンモン神の神託所を訪れて以来、自分は父フィリッポス2世ではなく神の子だという考えを、周囲がほのめかすのを止めなかった。故郷から王に従ってきたマケドニア人の古参の将兵には、それが面白くなかった。自分たちは王の家来ではなく、王とともに戦う仲間のはずだった。

クレイトスは、その古参の一人だった。「黒の」という呼び名で知られ、フィリッポスの時代からの将軍で、王の乳母ラニケの兄弟にあたる。王とは幼いころからの間柄だった。紀元前334年のグラニコス川の戦いでは、敵中に突っ込んだ王の頭上に、ペルシアの将が刀を振り下ろそうとした瞬間、その腕を斬り落として王の命を救ったと伝えられる。この年、王はクレイトスを、バクトリアとソグディアナを治める総督に任じようとしていた。名誉な地位だが、王のそばを離れ、辺境に残ることを意味した。

グラニコス川の戦いに関わる図版:Charles Le Brun, Le Passage du Granique, 1665
グラニコス川の戦いWikimedia Commons Charles Le Brun / Abraham Genoels · Public domain

事件のいきさつは、後の時代のアッリアノスやプルタルコス、クルティウスらの歴史家が書き残している。細部は書き手によって違うが、大筋は一致している。ある日、王は宴を開いた。酒が回ると、王の取り巻きたちが、王の功績はヘラクレスにも勝ると持ち上げ、フィリッポスの成し遂げたことなど大したものではないと言い出した。マケドニアの将軍たちの負け戦をからかう歌が歌われたとも伝えられる。

クレイトスは黙っていられなかった。王の功績は、フィリッポスが育てたマケドニアの兵たちの血で得たものではないか。王は父を否定して神の子を名乗り、ペルシア人の服を着て、マケドニア人にペルシア人の前で頭を下げさせようとしている。そしてクレイトスは右手を上げ、グラニコスで王を救ったのはこの手だ、と言ったという。プルタルコスによれば、彼はさらに、エウリピデスの悲劇の一節を引いた。兵士たちが戦って勝ち取った栄誉を、将軍が一人で手にする、ギリシアの悪い習わしを嘆く詩句である。

クレイトス
クレイトスWikimedia Commons André Castaigne · Public domain

王は激怒した。手元の林檎を投げつけ、剣を探したが、護衛がそれを隠していた。友人たちが王を押しとどめ、プトレマイオス1世らがクレイトスを宴の部屋の外へ連れ出した。だがクレイトスは別の戸口から戻ってきて、また王をなじった。その瞬間、王は衛兵の手から槍を奪い、クレイトスを刺し貫いた。クレイトスはその場で息絶えた。

我に返った王は、自分のしたことに打ちのめされた。槍を自分に向けようとして止められたとも伝えられる。王は天幕に閉じこもり、三日のあいだ、食べることも飲むこともせず、クレイトスの名と、乳母ラニケの名を呼んで泣いた。ラニケの息子たちは王のために戦って死んでいる。その弟を、今度は自分の手で殺したのである。

アレクサンドロスとクレイトスの争い
アレクサンドロスとクレイトスの争いWikimedia Commons Weston, W H; Plutarch; Rainey, W · Public domain

友人たちは王を慰めようとした。宮廷にいた哲学者アナクサルコスは、王のすることはそれ自体が正しいのだと説いた。王を法の上に置くこの慰めは、のちに強く批判されることになる。アッリアノスは、王が自分の過ちを隠さず、深く悔いたことを、むしろ王の美点として書いた。過ちを犯した王は多いが、それを認めて悔いた王は少ない、というのである。

この事件は、酒と怒りが引き起こした一瞬の出来事だった。だが、その背後には、遠征が生んだいくつもの裂け目があった。マケドニア人の王であるのか、ペルシアの大王であるのか。仲間であるのか、主君であるのか。フィリッポスの兵の軍隊なのか、アレクサンドロスの軍隊なのか。クレイトスは、そのすべての裂け目の上で死んだ。

裂け目は閉じなかった。翌年、王は同じソグディアナの貴族の娘ロクサネを妃に迎え、宮廷ではペルシア風の跪拝を取り入れようとして、アリストテレスの縁者でもある歴史家カリステネスの反対に遭った。カリステネスはまもなく陰謀に連座したとして処刑される(カリステネスの処刑)。さらにその翌年、インドの川のほとりで、疲れ切った兵たちは、これ以上は進まないと王に告げた(ヒュファシス川の兵の拒否)。王はまた三日天幕にこもったが、今度は王のほうが折れ、軍は引き返すことになった。

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