できごと

ベッソスの処刑

Execution of Bessus
BC329年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民匈奴マケドニアオーストロアジア系の稲作民Proto-Tibetan culturesCelltic Hallsatt cultureヒンドゥーの諸王国スキタイ周の諸侯国サーミ原アルタイ系の牧畜民Proto-Thai culturesシャンシュン王国マガダPlain-Pottery cultureエチオピア高原の農民クシュ王国Brushed Pottery cultureBell-shaped burials cultureギリシア諸ポリスギリシアの植民市Milograd cultureEastern Masurian cultureブレンミュエスBC329年バクトラ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC329年の版図を描いています(27勢力)。

概要

ダレイオスを殺して「アルタクセルクセス」を名乗った総督が、部下に縛られて裸で道端に置かれた。アレクサンドロスは鼻と耳を削いでエクバタナに送り、ペルシアの法で処刑させた。ダレイオスの仇を、ダレイオスの後継者として討った。マケドニア人は、王がペルシア人になっていくのを見た。

場所

バクトラ
36.75°N 66.90°E · アフガニスタン・バルフ

関わった人(2)

ベッソス?–BC329年 · 処刑されたアレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · 王

本文

BC331年、ガウガメラの戦いで敗れたペルシア王ダレイオス3世は、東へ逃れた。従っていたのは、わずかな兵と、東方の州を治める総督たちである。その一人がバクトリアの総督ベッソスだった。バクトリアはヒンドゥークシュの山の北、いまのアフガニスタン北部にあたる豊かな土地で、すぐれた騎兵を出した。ベッソスはダレイオスの親族でもあった。

BC330年7月、アレクサンドロス3世の追撃が迫るなかで、ベッソスらはダレイオスを捕らえて縛り、車に乗せて連れ回した。追いつかれると思ったとき、彼らは王を槍で刺して置き去りにし、逃げた(ダレイオス3世の死)。アレクサンドロスは王の遺体をペルセポリスに送り、王家の墓に手厚く葬らせた。

ベッソスの処刑(アンドレ・カスタン画、1899年)
ベッソスの処刑(アンドレ・カスタン画、1899年)Wikimedia Commons Andre Castaigne · Public domain

ベッソスはバクトラに戻り、アルタクセルクセスと名乗った。ペルシアの王の名である。王だけが許される、立てた形の冠をかぶり、王の衣を着た、とアッリアノスは記す。ペルシアの東方の諸州を束ね、アレクサンドロスに立ち向かう王として名乗りを上げたのである。

アレクサンドロスはすぐには追わなかった。南のアリアで総督が背き、ドランギアナでは側近のフィロタスが陰謀の罪で処刑され、その父の老将パルメニオンも遠いメディアで殺された(パルメニオンの暗殺)。軍はアラコシアを抜け、冬をヒンドゥークシュの南で越した。BC329年の春、アレクサンドロスは雪の残る山を越えた。食べ物が足りず、兵は生の肉を食べ、山に生える草で飢えをしのいだと伝えられる。

ダレイオスを殺した2人を処刑するアレクサンドロス(『シャー・ナーメ』の挿絵)
ダレイオスを殺した2人を処刑するアレクサンドロス(『シャー・ナーメ』の挿絵)Wikimedia Commons Ferdowsi · CC0

ベッソスは、山の北の土地を焼き払って退いた。バクトラを捨て、オクソス川(いまのアムダリヤ)を渡ると、渡し船を焼いた。川は広く流れは速く、近くに船を作る木もなかった。アレクサンドロスは、兵の天幕に使う皮に籾殻を詰めて縫い合わせ、浮き袋にして、五日をかけて全軍を渡した。

川の北のソグディアナで、ベッソスの側近たちが離れた。スピタメネスとダタフェルネスは、ベッソスを引き渡すと使いを送ってきた。アレクサンドロスは、のちにエジプトの王となるプトレマイオスに兵を付けて送った。プトレマイオス自身が残した記録によれば、ベッソスはある村で捕らえられた。アレクサンドロスは、ベッソスを裸にし、木の首枷をはめて、軍が通る道の右側に立たせよ、と命じた。

アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス
アレクサンドロス3世Wikimedia Commons Charles Laplante · Public domain

アレクサンドロスは戦車を止め、なぜ自分の王であり、親族であり、恩人であるダレイオスを捕らえ、殺したのか、と問うた。ベッソスは、自分一人で決めたのではない、ダレイオスの側にいた者たちと一緒にしたことで、アレクサンドロスの好意を得るためだった、と答えた。アレクサンドロスは鞭で打たせ、伝令に罪を読み上げさせた。

ベッソスはバクトラに送られた。アレクサンドロスはそこでペルシア人とマケドニア人を集めて裁きの場を開き、ベッソスの鼻と耳を削ぐよう命じた。鼻と耳を削ぐのは、王に背いた者へのペルシアの刑罰である。ダレイオス1世がベヒストゥンの岩に刻ませた碑文にも、背いた者の鼻と耳を切り、目をえぐったと記されている。ベッソスはそのあとエクバタナへ送られ、メディア人とペルシア人の前で処刑された。

殺され方は、史料によって違う。アッリアノスは処刑されたとだけ書く。クルティウスは、ダレイオスの弟に引き渡されて十字架にかけられたと書き、プルタルコスは、曲げた二本の木にそれぞれ体を縛り付け、木を放して引き裂いたと書く。どれが本当かは分からない。

アレクサンドロスは、ダレイオスの仇を、ダレイオスの後継者として討った。自分はペルシアの王位を奪った者ではなく、正しく受け継いだ者であり、王殺しの簒奪者を罰する、という形である。ペルシアの人々には、それは王として当然の振る舞いだった。だが、ギリシア人の目には残酷で野蛮に映った。アッリアノスは、この刑罰を蛮族の流儀だとはっきり非難し、そのころから王がペルシアやメディアの服を着はじめたことも嘆いている。マケドニア人は、王がペルシア人になっていくのを見た。その不満は、のちに酒宴の席で古い友クレイトスが王を責め、王の手で刺し殺される事件にまでつながる。

ベッソスを差し出したスピタメネスは、その後すぐに背き、ソグディアナとバクトリアで二年近くアレクサンドロスを苦しめた。BC328年の冬、スピタメネスは味方だった遊牧の民に殺され、首がアレクサンドロスに送られた。妻が殺したとする史料もある。翌BC327年、アレクサンドロスはこの地の貴族の娘ロクサネを妃に迎える。ベッソスが王を名乗った土地は、こうして、アレクサンドロスが東の妻を得た土地になった。

同じ時代のできごと

カイロネイアの戦いBC338年8月2日フィリッポス2世暗殺BC336年ディオゲネスとアレクサンドロスBC336年テーバイの破壊BC335年グラニコス川の戦いBC334年5月アレクサンドロスの東方遠征BC334年イッソスの戦いBC333年11月ゴルディオンの結び目BC333年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC329年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →