ディアドコイ戦争
概要
王が「最も強い者に」と言い残したとされ、将軍たちが40年争った。母も妻も子も殺された。イプソスで決着し、三つの王国が残る。
場所
32.54°N 44.42°E · イラク・バービル県
関わった人(4)
アンティゴノスBC382年–BC301年 · 最大の勢力オリュンピアスBC375年頃–BC316年 · 殺されたセレウコス1世BC358年頃–BC281年 · 生き残ったプトレマイオス1世BC367年頃–BC282年 · 生き残った本文
紀元前323年6月、バビロンでアレクサンドロス3世が熱病に倒れた。33歳の誕生日を目前にした死だった。ギリシアからインダス川までを征服した王は、後継者を決めていなかった。死の床で、帝国を誰に残すのかと問われ、「最も強い者に」と答えたと伝わる。印章の指輪を、側近の将軍ペルディッカスに渡したとも伝えられる。
王の血を引く者は、ほとんどいなかった。妃のロクサネは身ごもっていたが、まだ生まれていない。ほかには、知恵に遅れがあったとされる異母兄アリダイオスがいるだけだった。軍は割れた。マケドニアの歩兵はアリダイオスを王に推し、騎兵の貴族たちは生まれてくる子を待つべきだと主張した。一時は刃を交える寸前までいったが、結局、二人ともを王にすることで収まった。アリダイオスはフィリッポス3世となり、生まれた男の子はアレクサンドロス4世となった。

どちらにも実権は無い。帝国は、将軍たちが州ごとに分けて治めることになった。摂政格のペルディッカスが中央に立ち、プトレマイオス1世はエジプトを、アンティゴノスは小アジアの中部を、リュシマコスはトラキアを受け持った。マケドニア本国とギリシアは、老将アンティパトロスが押さえた。後継者を意味するギリシア語から、彼らはディアドコイと呼ばれる。
争いはすぐに始まった。プトレマイオスは、王の遺体をバビロンからマケドニアへ運ぶ葬列を途中で奪い、エジプトへ持ち去った。偉大な王を葬る者こそ正統な後継者だという主張である。ペルディッカスはエジプトへ攻めこんだが、ナイル川の渡河に失敗して多くの兵を失い、紀元前320年ごろ、自分の部下たちに殺された。その後の取り決めで領土は配り直されたが、翌年アンティパトロスが死ぬと、その子カッサンドロスと、後見を託された別の将軍とのあいだで、また戦いが起きた。

この争いに、王家の女たちが巻きこまれた。アレクサンドロスの母オリュンピアスは孫のアレクサンドロス4世を守ろうとマケドニアに戻り、紀元前317年、アリダイオスとその妻を殺させた。翌年、カッサンドロスはオリュンピアスを捕らえ、裁判にかけて殺した。ロクサネと少年王は幽閉され、紀元前310年ごろ、ひそかに殺された。アレクサンドロスの子とされるもう一人の少年も、まもなく殺されている。王の死から十数年で、その血筋は絶えた。
最大の勢力を築いたのはアンティゴノスだった。小アジアを足場に、アジアの大半を手中に収め、帝国を一つに戻そうとした。息子のデメトリオスは、攻城の巧みさから「攻城者」とあだ名された将軍で、父子は紀元前306年、そろって王を名乗った。ほかの将軍たちもすぐ後に続き、帝国の分割はこれで形の上でもはっきりした。
アンティゴノスの強大さは、ほかの全員を一つにした。紀元前301年、小アジアのイプソスで、セレウコス、リュシマコス、カッサンドロスの連合軍がアンティゴノス父子とぶつかった(イプソスの戦い)。セレウコスがインドの王から手に入れた戦象が勝敗を左右した。アンティゴノスは、援軍が来ると信じて戦場にとどまり、投げ槍を受けて死んだ。81歳だった。

それでも争いは終わらなかった。デメトリオスは生き延びて一時マケドニアの王になり、リュシマコスはさらに勢力を広げた。紀元前281年、セレウコス1世がコルペディオンでリュシマコスを破って戦死させたが、そのセレウコスも、マケドニアへ渡ろうとしたところで暗殺された。最初の世代の将軍は、こうしてほとんどが戦いと暗殺のうちに世を去った。
王の死からおよそ40年ののち、帝国は三つの王国に落ち着いた。アジアのセレウコス朝、エジプトのプトレマイオス朝、そしてアンティゴノスの孫が治めるマケドニアである。小アジアには、のちにペルガモン王国のような小さな国も生まれた。

三つの王国はどれも、ギリシア人の王と兵と役人が、エジプト人やペルシア人やシリア人の土地を治める国だった。その王たちのもとで、ギリシアの言葉と都市の暮らしは地中海の東からイランまで広がり、ヘレニズムと呼ばれる時代が続いていく。アレクサンドリアには大きな図書館が作られた。三つの王国が最後にのみこまれるのは、西から来たローマによってで、最も長く続いたプトレマイオス朝も紀元前30年に滅んだ。