人物

アリストテレス

Aristoteles
BC384年 – BC322年(享年62・推定)
ギリシア重要度 4

概要

哲学者。若きアレクサンドロスの家庭教師をつとめた。

所属

ギリシア

関わったできごと(1)

プラトンのアカデメイアBC387年 · 学んだ

本文

紀元前384年、ギリシア北部のカルキディケ半島にある小さな町スタゲイラに生まれた。父ニコマコスは医者で、マケドニア王アミュンタス3世の侍医を務めていた。医者の家に育ったことが、のちに生き物を観察し、記録する姿勢につながったと考える人もいる。両親を早くに亡くし、親族のもとで育てられた。

アリストテレスの胸像(アルテンプス宮)
アリストテレスの胸像(アルテンプス宮)Wikimedia Commons After Lysippos · Public domain

17歳でアテナイに出て、プラトンの学園アカデメイアに入った(プラトンのアカデメイア)。そこに20年留まり、師が亡くなる紀元前347年まで学び、やがて教えもした。プラトンは彼を「学園の知性」と呼んだと伝えられる。

だが、アリストテレスは師の考えをそのまま受け継ぎはしなかった。プラトンは、目に見える個々の物の背後に、永遠に変わらない「イデア」の世界があると考えた。アリストテレスは、物の本質は物の外ではなく物そのものの中にある、と考えた。『ニコマコス倫理学』では、イデア説を批判するにあたって、友も真理もともに大切だが、真理をより重んじるのが敬虔というものだ、と書いた。のちにこれは「プラトンは友、されど真理はさらに友」という格言になった。プラトンの死後、学園の後継者には師の甥が選ばれ、アリストテレスはアテナイを去った。

ラファエロ画『アテナイの学堂』(1509年)のプラトンとアリストテレス
ラファエロ画『アテナイの学堂』(1509年)のプラトンとアリストテレスWikimedia Commons Raphael · Public domain

それから十数年、彼は小アジアやエーゲ海の島々を移り住んだ。小アジアのアッソスでは、学問好きの支配者ヘルメイアスのもとに身を寄せ、その姪を妻に迎えた。レスボス島では、友人で弟子のテオフラストスとともに、入り江の生き物を徹底的に観察した。

紀元前343年頃、マケドニア王フィリッポス2世に招かれ、13歳の王子の教育を引き受けた。のちのアレクサンドロス3世である。都から離れた土地で、数年にわたって政治、倫理、文学などを教えたとされる。アレクサンドロスはホメロスの叙事詩を愛読し、師が校訂した写本を遠征にも携えたと伝えられる。ただ、何をどう教え、二人の関係がどうだったかを伝える確かな史料は少ない。王となった教え子が東方に遠征した際、各地の動物の標本を師に送らせたという話も伝わるが、後世の脚色とする見方が強い。

笛を吹く人物像。アリストテレスは笛を吹く力は学習で得られると論じた
笛を吹く人物像。アリストテレスは笛を吹く力は学習で得られると論じたWikimedia Commons Alcestis Group · CC BY 2.5

紀元前335年、アテナイに戻ったアリストテレスは、郊外の体育場リュケイオンに自分の学園を開いた。屋根付きの回廊を歩きながら議論したことから、その学派は「ペリパトス(逍遥)学派」と呼ばれる。ここで弟子たちとともに、あらゆる分野の知識を集め、整理した。ギリシア各地の158のポリスの国制を集めて調べたのも、その一つである。

扱った分野は驚くほど広い。正しい推論の形を初めて体系的に示した論理学。物の運動と変化を論じた自然学。「善く生きるとは何か」を問い、勇気は臆病と無謀の間にあるというように、両極端の中ほどに徳を見た倫理学。人間はポリスを作って生きる動物である、と述べた政治学。悲劇は観客に恐れと憐れみを呼び起こし、心を浄める、と論じた詩学。そして、存在するとはどういうことかを問う、のちに「形而上学」と呼ばれる考察。いまの学問の分け方の多くは、彼の仕事にさかのぼる。

タコの交接腕(アリストテレスが観察した生殖器官)
タコの交接腕(アリストテレスが観察した生殖器官)Wikimedia Commons R. L. Hudson · Public domain

なかでも生物の研究は、自分の目で見ることにこだわった点で際立っている。500を超える種類の動物について、体のつくり、食べ物、繁殖の仕方を記した。イルカやクジラが肺で呼吸し、子を産んで乳で育てることから、魚とは違う仲間だと見抜いていた。タコの雄の腕の一本が繁殖に使われるという記述は、長く信じられなかったが、19世紀になって正しいと確かめられた。一方で、重い物ほど速く落ちる、という彼の説は、2000年近く後に覆されることになる。奴隷は生まれつき奴隷である者がいる、とも論じている。

紀元前323年、アレクサンドロスがバビロンで急死すると(アレクサンドロスの死)、アテナイではマケドニアへの反感が噴き出した。王家と縁の深いアリストテレスは、神々を敬わない罪で訴えられる。彼はアテナイを去り、母の故郷エウボイア島のカルキスへ移った。アテナイ人に、哲学に対して二度目の罪を犯させないために、と語ったと伝えられる。一度目とは、ソクラテスを死刑にしたことを指す。翌紀元前322年、その地で病のため亡くなった。62歳ほどだった。遺言では、奴隷の何人かを解放するよう命じている。

イヌザメ胎児の図。アリストテレスは臍帯で卵黄嚢につながる様子を記録した
イヌザメ胎児の図。アリストテレスは臍帯で卵黄嚢につながる様子を記録したWikimedia Commons Jonathan Couch · Public domain

彼の著作は、200巻ほどあったとされる。そのうち、一般向けに書かれ、流れるような文章だとキケロが称えた対話篇は、ほとんど失われた。残ったのは、学園での講義のための覚え書きにあたるもので、文章は簡潔で、ときに読みにくい。それも一時は地下室に埋もれ、紀元前1世紀にローマで編集されて、ようやく世に出たと伝えられる。

その後の影響は計り知れない。9世紀以降、彼の著作はアラビア語に訳され、イスラーム世界の哲学者たちが深く研究した。12世紀のイブン・ルシュドの注釈を通じて(イブン・ルシュドのアリストテレス注釈)、その学問はラテン語のヨーロッパに戻り、トマス・アクィナスはキリスト教の神学と彼の哲学を結びつけた。中世を通じて、「哲学者」といえばアリストテレスのことだった。その権威が大きすぎたため、17世紀のガリレオ・ガリレイらの科学は、彼の自然学を否定するところから始まることになる。それでも、論理学、生物学、倫理学、政治学など、彼が切り開いた問いの多くは、いまも議論の出発点になっている。

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