アレクサンドロスのバビロン入城
概要
ガウガメラの3週間後、総督マザイオスが門を開けた。花が撒かれ、祭壇に香が焚かれた。マルドゥクに犠牲を捧げ、クセルクセスが壊した神殿の再建を命じた。ペルシアの征服者が、ペルシアの都で、バビロンの神の前に跪いた。8年後、同じ街で死んだ。
場所
32.54°N 44.42°E · イラク・バービル県
関わった人(1)
アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · 王本文
紀元前331年10月1日、アレクサンドロス3世は、ティグリス川の東のガウガメラでペルシアの大王ダレイオス3世の大軍を破った(ガウガメラの戦い)。ダレイオスは東のメディアの都エクバタナへ逃れた。アレクサンドロスは逃げる王を追わず、南へ向かう。目指したのは、メソポタミアの古い都、バビロンだった。
バビロンは、2000年以上の歴史を持つ大都市だった。紀元前6世紀には新バビロニアの王ネブカドネザル2世のもとで栄え(ネブカドネザルのバビロン)、青い煉瓦で飾られたイシュタル門や、巨大な城壁、マルドゥク神を祀る神殿エサギラと高い塔を誇った。紀元前539年にキュロスのバビロン征服でペルシアの支配下に入ってからも、帝国の主要な都の一つであり続けていた。城壁は厚く、攻め落とすには長い包囲が要ると思われた。

だが、戦う必要は無かった。ガウガメラでペルシア軍の右翼を率いていた将軍マザイオスが、子どもたちとともに町の前に出て、アレクサンドロスを迎え、降伏したのである。ローマ時代の歴史家クルティウスは、その日の様子を華やかに描いている。人々は城壁の上に群がり、道には花や花輪がまかれ、銀の祭壇では香が焚かれた。家畜の群れや、ライオンや豹が贈り物として引かれ、祭司や占星術にたけた人々、楽人たちが行列をなした。アレクサンドロスは戦車に乗って町に入った。ガウガメラの戦いからおよそ3週間後のことだった。
アレクサンドロスは、バビロンの神マルドゥクに犠牲を捧げ、祭司たちの勧めに従って儀式を行った。アリアノスによれば、ペルシアの王クセルクセス1世が壊した神殿を建て直すよう命じたという。ただ、クセルクセスが本当にエサギラを破壊したのかについては、現代の研究者の間で疑問も出されている。いずれにしても、外から来た征服者が、その土地の神を敬い、祭司たちの支持を得ようとしたことは確かである。200年前にバビロンに入ったペルシアのキュロスも、同じようにマルドゥクの名のもとで自らの支配を正当化していた。

バビロンの祭司たちは、毎晩の星の動きと、その日の出来事や物の値段を粘土板に書きつける天文の日誌を、何百年も書き続けていた。その中の一枚は、この年の出来事として、「世界の王」アレクサンドロスがバビロンに入ったことを記している。征服された側の記録に、征服者の姿が残っているのである。
アレクサンドロスは、1か月ほどバビロンにとどまって兵を休ませた。そしてマザイオスを、そのままバビロニアの総督に任じた。ペルシアの貴族を総督に据えたのは、これが初めてだった。ただし、町の守備隊の長と、税を集める役人にはマケドニア人やギリシア人を置いた。ペルシアの帝国の仕組みと人々をそのまま使いながら、要所を自分の手で押さえる。それは、この後の帝国の治め方の手本になった。

バビロンを発ったアレクサンドロスは、スーサ、ペルセポリスと、ペルシアの都を次々に手に入れた(ペルセポリス炎上)。翌年、逃げ続けたダレイオスは家臣に殺される(ダレイオス3世の死)。アレクサンドロスはさらに東へ進み、中央アジアからインドまで遠征した(アレクサンドロスの東方遠征)。
8年後の紀元前323年、インドから戻ったアレクサンドロスは、ふたたびバビロンに入った。バビロンの占い師たちは、東から町に入ると災いがある、と警告したと伝えられる。アレクサンドロスは、バビロンを新しい帝国の中心とし、アラビアへの遠征を準備していた。だがその年の6月、熱病に倒れ、ネブカドネザルの宮殿で、32歳で死んだ(アレクサンドロスの死)。天文の日誌は、この日、王が死んだ、と短く記している。後継者の一人セレウコスがティグリス川のほとりに新しい都を築くと、バビロンの人々はそちらへ移り、古い都はしだいに寂れていった。アレクサンドロスが通ったイシュタル門は、20世紀の初めにドイツの調査隊が掘り出し、いまはベルリンの博物館で組み立て直されている。