イッソスの戦い

概要
狭い海岸平野でダレイオス3世の大軍を破った。王は戦場を捨てて逃げ、母と妻子が捕らえられる。
場所
36.85°N 36.20°E · トルコ・ハタイ県
関わった人(2)
アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · マケドニア側 · 総指揮ダレイオス3世BC380年頃–BC330年 · ペルシア側 · 総指揮本文
紀元前333年11月、小アジアの南東の付け根、地中海の奥、いまのイスケンデルン湾に面した狭い海岸平野で、マケドニアの王アレクサンドロス3世と、ペルシアの大王ダレイオス3世の軍がぶつかった。数ではペルシアが圧倒していたが、山と海に挟まれた狭い土地では、その数を生かせなかった。戦いの最中に大王は戦車で戦場を捨てて逃げ、置き去りにされた陣営で、母と妻と子どもたちがマケドニア軍の手に落ちた。
アレクサンドロスが3万あまりの歩兵と5千ほどの騎兵を率いてアジアへ渡ったのは、前年の春だった(アレクサンドロスの東方遠征)。父フィリッポス2世が計画したペルシア遠征を、暗殺された父に代わって20歳を過ぎたばかりで引き継いだのである。最初のぶつかり合いになったグラニコス川の戦いでは、小アジアに置かれていたペルシアの総督たちの軍を破った。だがそこにダレイオス自身はいなかった。アレクサンドロスは小アジアの西岸と南岸の町々を次々に従え、夏には南東のタルソスに入ったが、冷たい川で泳いだ後に高い熱を出して倒れ、しばらく動けなかった。

その間に、ダレイオスはバビロンで帝国の各地から兵を集め、シリアの広い平原に陣を張って待った。広い平原なら、数で勝る騎兵を存分に使える。アレクサンドロスはようやく病から回復すると、海岸沿いに南へ進み、山を越えてシリアに入る道をうかがった。
ここで、二人の動きがすれ違う。待ちきれなくなったダレイオスは平原を出て、北の峠からアマノス山脈を越え、アレクサンドロスの軍の背後へ回り込んだ。イッソスの町に出たペルシア軍は、そこに残されていたマケドニアの病人や負傷兵を見つけて殺した。補給の道を断たれたと知ったアレクサンドロスは、すぐに軍を引き返させた。こうして、ダレイオスが自ら選んだのではない狭い場所で、両軍はピナロスという小さな川を挟んで向き合うことになった。
ペルシア軍の数を、古代の歴史家たちは60万などと書いている。とても信じられない数字で、現代の研究者は、多く見ても10万前後、もっと少なかったと見る人もいる。それでも、4万ほどのマケドニア軍より多かったことは確かだろう。ペルシア軍の中核には、高い給料で雇われたギリシア人の重装歩兵が数万いた。ギリシア人どうしが、ここでも敵味方に分かれて戦った。
アレクサンドロスは、いつもの戦い方をとった。右翼に自ら率いる精鋭の騎兵を置き、中央に長い槍を構えた密集歩兵の隊列、左翼の海側には老将パルメニオンを置いて、持ちこたえるよう命じた。戦いが始まると、アレクサンドロスは騎兵の先頭に立って川を渡り、ペルシア軍の左翼を突き崩して、そのまま中央にいるダレイオスの戦車をめがけて斬り込んだ。その間、海側のパルメニオンはペルシアの騎兵の猛攻にさらされ、中央の歩兵も川岸を登るところでギリシア人傭兵に押し返されて、苦しい戦いを強いられた。アレクサンドロス自身も腿に傷を負った。
戦いの最中、ダレイオスは戦車で逃げた。身の危険が迫ったとみて、戦車の向きを変えたのである。荒れた道で戦車を捨てると馬に乗り換え、弓も盾も王の外套も捨てて走り去った。王が消えると、軍は崩れる。中央と海側で優勢だったペルシア兵も、大王が逃げたと知ると総崩れになり、狭い谷間に殺到して、多くが追撃の中で命を落とした。
置き去りにされた陣営に、王の母シシュガンビス、妃スタテイラ、二人の娘、まだ幼い息子がいた。夜、アレクサンドロスが追撃から戻ると、ダレイオスの天幕から女たちの泣き声が聞こえた。大王の外套と弓が持ち帰られたのを見て、王が死んだと思ったのである。アレクサンドロスは使いを送り、ダレイオスは生きていること、王族としての扱いをすべて保証することを伝えさせた。

アレクサンドロスは彼女たちを丁重に扱った。翌日、親友ヘファイスティオンとともに女たちを訪ねたとき、王の母は、背が高く立派に見えたヘファイスティオンのほうをアレクサンドロスだと思って、その前にひれ伏した。間違いに気づいて恐れる母に、アレクサンドロスは、かまわない、この者もアレクサンドロスなのだから、と言ったと伝えられる。歴史家アッリアノスも、本当かどうかは分からないと断ったうえでこの話を書き留めている。のちに妃スタテイラが死んだとき、アレクサンドロスは正式な葬儀を行わせた。
勝者が手に入れたのは、家族だけではなかった。パルメニオンが送られたダマスカスでは、ダレイオスが戦いの前に預けていた莫大な財宝と、多くの貴族の家族が押さえられた。これで、マケドニアの戦費の心配はなくなった。ダレイオスの豪華な天幕と浴室を見たアレクサンドロスは、これが王であるということか、と言ったとプルタルコスは伝えている。

ダレイオスは何度も講和を申し出た。まず手紙で家族の返還と友好を求め、アレクサンドロスがそれを退けると、次には、ユーフラテス川より西の領土と莫大な身代金、そして娘との結婚を差し出した。帝国の西半分を手放す、という申し出である。パルメニオンが「私がアレクサンドロスならば受け入れる」と言うと、アレクサンドロスは「私もパルメニオンならばそうするだろう」と返したと伝わる。この有名なやりとりは、講和の申し出の時期とともに史料によって食い違い、どこまで実際にあったことかは分からない。
アレクサンドロスは内陸へは向かわず、まず地中海の沿岸を押さえることを選んだ。ペルシアの海軍の拠点となる港を一つずつ奪えば、背後を脅かされることはない。フェニキアの島の町ティルスは7か月の包囲の末に落ち(ティルス攻囲)、エジプトは戦わずに手に入った。2年後の前331年、ダレイオスはメソポタミアの平原で再び大軍を率いて戦うが、ガウガメラの戦いでもまた戦場から逃げ、翌年、自分の臣下に殺される(ダレイオス3世の死)。

この戦いは、後の世の画家たちを惹きつけた。ポンペイの「ファウヌスの家」の床から出た巨大なモザイク画は、馬上で槍を構えるアレクサンドロスと、戦車の上で恐怖の表情を浮かべて手を伸ばすダレイオスを描いている。イッソスの戦いを描いたものとする説が有力で、ガウガメラだとする説もある。ヘレニズム時代の絵を写したもので、ヴェスヴィオ火山の噴火の火山灰の下で2千年近く守られてきた。アレクサンドロスは戦いのあと、近くの海辺に自分の名を付けた町を建てたとされ、それがいまのトルコの港町イスケンデルンの起こりと言われている。