人物

ダレイオス3世

Dareios III
BC380年頃 – BC330年(享年50・推定)
アケメネス朝ペルシア重要度 4

概要

アケメネス朝最後の王。イッソスとガウガメラで敗れ、逃走中に臣下に殺された。

所属

アケメネス朝ペルシア

関わったできごと(3)

イッソスの戦いBC333年11月 · ペルシア側 · 総指揮ガウガメラの戦いBC331年10月1日 · ペルシア側 · 総指揮ダレイオス3世の死BC330年 · 殺された

本文

ダレイオス3世は、西アジアを200年余り支配したアケメネス朝ペルシアの最後の王である。生まれは紀元前380年頃とみられる。王家の傍系の出で、もとの名をアルタシャタといった。ギリシアの史料では、コドマンノスという名でも呼ばれる。若い頃、カスピ海の南の部族との戦いで、敵の勇士との一騎打ちに勝って名を上げたという話が伝わる。のちにアルメニアの総督を務めた。

ダレイオス3世の肖像
ダレイオス3世の肖像Wikimedia Commons Public domain

当時のペルシアの宮廷は、血なまぐさい争いの中にあった。紀元前338年、エジプトを再び征服した有能な王アルタクセルクセス3世が、宦官のバゴアスに毒殺された。バゴアスはその王子を王に立てたが、思い通りにならないと見て、2年後に彼も殺した。そして紀元前336年、傍系のアルタシャタを王位に就けた。彼はダレイオス3世を名乗った。同じ年、マケドニアではフィリッポス2世が暗殺され、20歳のアレクサンドロス3世が王位を継いでいる。

バゴアスは、やがて新しい王も毒殺しようとした。ダレイオスはそれを察し、差し出された杯をバゴアス自身に飲ませた、とギリシアの歴史家ディオドロスは書いている。即位の後、彼はエジプトで起きた反乱を鎮め、帝国の支配を立て直した。

紀元前334年、アレクサンドロスが小アジアに攻め込んだ(アレクサンドロスの東方遠征)。最初の戦いは、地方の総督たちが迎え撃って敗れた。翌333年11月、ダレイオスは自ら大軍を率いて、地中海の東の隅のイッソスでアレクサンドロスと対決した(イッソスの戦い)。だが海と山に挟まれた狭い平地で、ペルシア軍は数の多さを生かせなかった。アレクサンドロスの騎兵がダレイオスのいる中央へ突き進むと、ダレイオスは戦車で戦場を離れ、ペルシア軍は総崩れになった。陣営に残された王の母、妻、娘たちは捕らえられた。アレクサンドロスは彼女たちを王族として丁重に扱った。

イッソスの戦いに関わる図版:Battle of Issus mosaic - Museo Archeologico Nazionale - Naples 2013-05-16 16-25-06 BW
イッソスの戦いWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ダレイオスは和平を申し入れた。ユーフラテス川より西の土地を譲り、莫大な身代金を払い、娘を妻として与える、という条件だったと伝えられる。重臣のパルメニオンが、私がアレクサンドロスなら受け入れる、と言うと、アレクサンドロスは、私もパルメニオンなら受け入れる、と答えて退けた、という有名な話が残っている。捕らわれていた王妃は、まもなく死んだ。

紀元前331年10月、ダレイオスは、帝国の東部から集めた兵を加えて、ティグリス川の東のガウガメラの平原で再び決戦に臨んだ(ガウガメラの戦い)。今度は戦場をあらかじめ平らにならし、車輪に鎌をつけた戦車や象まで並べた。だがアレクサンドロスは斜めに進んでペルシア軍の隊列に隙間を作らせ、そこへ騎兵を突入させた。ダレイオスは再び戦場を離れ、東へ逃れた。バビロン、スーサ、ペルセポリスの都は次々にアレクサンドロスの手に落ち、ペルセポリスの宮殿は焼かれた(ペルセポリス炎上)。

ガウガメラの戦いに関わる図版:Pietro da Cortona - Battle of Alexander versus Darius - Google Art Project
ガウガメラの戦いWikimedia Commons Pietro da Cortona · Public domain

イラン高原のエクバタナに逃れたダレイオスは、なお東方で軍を立て直そうとした。だが、敗北を重ねた王に、臣下たちはもはや従わなかった。紀元前330年の夏、東部のバクトリアの総督ベッソスらは、ダレイオスを捕らえて金の鎖で縛り、車に乗せて連れ回した。アレクサンドロスの追撃が迫ると、彼らは王を槍で刺して置き去りにした(ダレイオス3世の死)。50歳前後だった。アレクサンドロスが追いついたとき、王はすでに息絶えていたとも、最期の息のうちにあったともいわれる。

アレクサンドロスは、ダレイオスの遺体を自分のマントで覆い、ペルセポリスの王家の墓所に丁重に葬らせた、と伝えられる。一方、王を名乗ったベッソスは翌年に捕らえられ、鼻と耳を切られたうえで処刑された(ベッソスの処刑)。王を殺した者を許さないという姿勢は、アレクサンドロス自身が、ペルシアの王位を正しく受け継ぐ者として振る舞うためでもあった。のちに彼は、ダレイオスの娘を妻に迎えている。

死にゆくダレイオスのもとに立つアレクサンドロス(15世紀の写本挿絵)
死にゆくダレイオスのもとに立つアレクサンドロス(15世紀の写本挿絵)Wikimedia Commons Unknown Flemish artist · CC0

ダレイオス3世は、二度も戦場から逃げ出した臆病な王として描かれることが多い。だが、彼について伝わる記録は、ほとんどがアレクサンドロスの偉業をたたえるギリシア・ローマの歴史家の書いたもので、ペルシア側の記録はほとんど残っていない。王が死ねば帝国そのものが崩れる以上、生き延びて軍を立て直すことを選んだのは、王として筋の通った判断だったと見る研究者もいる。彼は、勝者の書いた歴史の中にだけ姿を残した敗者である。

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