ベッソス
概要
バクトリアの総督。ガウガメラで左翼を率いた。逃げるダレイオスを縛って、アレクサンドロスが近づくと槍で刺して置き去りにした。「アルタクセルクセス5世」。バクトリアで抵抗しようとして、部下スピタメネスに売られた。鼻と耳を削がれ、エクバタナで磔。
所属
アケメネス朝ペルシア関わったできごと(3)
ガウガメラの戦いBC331年10月1日 · 左翼ダレイオス3世の死BC330年 · 刺したベッソスの処刑BC329年 · 処刑された本文
アケメネス朝の東の端、バクトリア(いまのアフガニスタン北部)の総督だった。生年も若いころのことも伝わらない。アッリアノスは彼をダレイオス3世の親族と書いている。バクトリアは中央アジアの騎馬の民に接する辺境で、その総督は王家に近い者が任じられる重い職だった。王の血を引くという事実が、のちに彼を王位へ向かわせることになる。
名が記録に現れるのは、紀元前331年のガウガメラの戦いからである。ダレイオス3世の大軍のなかで、ベッソスはバクトリアとソグディアナの騎兵を率いて左翼に立った。マケドニア軍の右翼、つまりアレクサンドロス3世自身が率いる側と向き合う位置で、戦いの序盤には彼の騎兵がマケドニア側の右端を押し込んでいる。しかしアレクサンドロスが中央に開いた隙へ突入すると、ダレイオスは戦場を離れた。王が逃げれば軍は持たない。ベッソスも騎兵をまとめて東へ退いた。

ダレイオスはメディアのエクバタナで再起を図ったが、紀元前330年、アレクサンドロスが迫ると、さらに東へ逃れた。従う者は減り、残った重臣の心は王から離れていった。カスピ門を越えたあたりで、ベッソスは近衛の長ナバルザネス、アラコシアの総督バルサエンテスと組み、王を捕らえた。クルティウスは、王の身分にふさわしく金の鎖で縛り、覆いをかけた荷車に乗せたと書く。王を手土産にアレクサンドロスと取引するか、王を連れて東で戦い続けるか。彼らの狙いははっきりしない。
追手は速かった。アレクサンドロスは騎兵だけを率いて夜を徹して駆け、追いつかれそうになると、ベッソスらはダレイオスを槍で刺して荷車ごと置き去りにし、散り散りに逃げた(ダレイオス3世の死)。マケドニア兵が見つけたとき王はすでに息絶えていた、あるいは虫の息で水を求めたと、伝える史家によって違う。アレクサンドロスは遺体をペルセポリス炎上のあとのペルセポリスへ送り、王として葬らせた。こうして彼は、敵の王の仇を討つ者という立場を手に入れた。

ベッソスはバクトリアへ戻り、「アルタクセルクセス」を名乗った。アルタクセルクセス5世である。王にだけ許された立てた頭巾をかぶり、王の衣を着た。王を殺した者が王を名乗ったことになる。東方の諸総督に呼びかけて抵抗の陣を張り、紀元前329年の春、アレクサンドロスがヒンドゥークシュを越えてくると、通り道の土地を焼き払ってオクソス川(アムダリヤ)の北へ退いた。だが、バクトリアの騎兵は故郷を捨てる彼についてこなかった。
ソグディアナの有力者スピタメネスとダタフェルネスは、ベッソスを差し出すと申し出た。アレクサンドロスはプトレマイオス1世に兵を付けて受け取りに行かせた。アッリアノスによれば、ベッソスはある村で裸にされ、首に木の枷をはめられて、道端に立たされていた。アレクサンドロスは車を止め、なぜ自分の王であり親族であり恩人である者を捕らえ、殺したのかと問うた。ベッソスは、自分一人で決めたことではなく、アレクサンドロスの歓心を買うために王の側近が皆で決めた、と答えたという。

アレクサンドロスは彼を鞭打たせ、のちにバクトラで開いた会議で鼻と耳を削がせ、エクバタナへ送ってメディア人とペルシア人の前で処刑させた。鼻や耳を削ぐのは、ペルシアで王に背いた者に科す罰だった。ベヒストゥンの碑文には、ダレイオス1世がメディアの反乱者を同じように罰したことが刻まれている。アッリアノスはこの罰を、アレクサンドロスが東方の慣習に染まった表れとして非難している。処刑の方法については、ダレイオスの弟オクシュアトレスに引き渡されたとする話や、曲げた二本の木に縛りつけて引き裂いたとする話(プルタルコス)もあり、一致しない。死んだ年も紀元前329年とも翌年ともされる。
ベッソスの抵抗は一年ほどで終わった。かわって立ったのは、彼を売ったスピタメネスである。スピタメネスは遊牧の民と結んでソグディアナ全体を立ち上がらせ、アレクサンドロスはその平定に2年近くを費やした(アレクサンドロスの東方遠征)。ベッソスは、アケメネス朝の王位を名乗った最後の人物として記録に残った。王家の血と辺境の兵を頼りに帝国の看板を掲げ直そうとして、その兵に見放された男だった。