アンティゴノス
概要
「隻眼」。後継者戦争で最大の勢力を築き、帝国の再統一に最も近づいた。81歳でイプソスに立ち、他の全員に囲まれて戦死した。
所属
マケドニア関わったできごと(1)
ディアドコイ戦争BC322年 · 最大の勢力本文
アンティゴノスは紀元前382年ごろ、マケドニアの貴族の家に生まれた。マケドニアを強国に押し上げたフィリッポス2世と同じ年ごろで、王に仕えて戦いを重ねた古参の将軍である。若いころの戦いで片目を失い、「モノフタルモス(隻眼)」と呼ばれた。どの戦いで失ったのかは分かっていない。画家アペレスは、彼の肖像を描くときに失った目の側が見えないよう横顔で描いた、と古代の記録にある。

紀元前334年、フィリッポスの子アレクサンドロス3世がペルシアへの遠征に出ると、アンティゴノスはギリシアの同盟軍の歩兵を率いて加わった。翌年、小アジアの内陸のフリュギアを任され、総督になった。王が東へ進んでいくあいだ、アンティゴノスは後方に残された。
後方の役目は軽くなかった。紀元前333年のイッソスの戦いのあと、敗れたペルシア軍の一部は小アジアへ逃げ込み、遠征軍の補給路を断とうとした。アンティゴノスはこれを三度の戦いで退け、小アジアを守り抜いた。地味な仕事だったが、遠征軍が東の果てまで進めたのは、背後が保たれていたからでもある。

紀元前323年、アレクサンドロスがバビロンで死んだ(アレクサンドロスの死)。後継ぎは決まっておらず、残された将軍たちが帝国の分け前を争う時代が始まった(ディアドコイ戦争)。60歳近くになっていたアンティゴノスは、はじめ摂政ペルディッカスに疑われ、ヨーロッパへ逃れた。だがペルディッカスはまもなくエジプト攻めの最中に部下に殺された。アンティゴノスはアジアの軍の総司令官に任じられて戻り、ペルディッカス派の残党と戦った。
最大の敵は、アレクサンドロスの書記官から将軍になったエウメネスだった。アンティゴノスはイランの高原で二度にわたって戦い、紀元前316年、エウメネスの兵の家族と財産を奪うことで、その兵に将軍を引き渡させた。エウメネスは処刑された。勝ったアンティゴノスは、小アジアからイランまで、帝国のアジアの大半を手中にした。バビロンを治めていたセレウコスは身の危険を感じ、エジプトのプトレマイオス1世のもとへ逃げた。
アンティゴノスは、帝国を自分のもとで一つに戻そうとしていた。それを恐れたプトレマイオス、マケドニアのカッサンドロス、トラキアのリュシマコス、そしてセレウコスが手を結び、以後の戦いはアンティゴノスとそれ以外の全員、という形になった。紀元前312年、息子デメトリオスがガザでプトレマイオスに敗れ、そのすきにセレウコスはバビロンを取り戻した。アンティゴノスは東の領土を取り返そうとしたが、果たせなかった。
紀元前306年、デメトリオスはキプロス沖の海戦でプトレマイオスの艦隊を破った。知らせを受けたアンティゴノスは、自分と息子を王と称した。アレクサンドロスの一族はすでに殺され、王位は空いていた。これを見て、プトレマイオス、セレウコス、リュシマコス、カッサンドロスも次々に王を名乗った。アレクサンドロスの帝国は、この時、形の上でも複数の王国に割れた。
その後も、アンティゴノスの企ては続いた。エジプトへの大遠征は嵐とナイルの守りに阻まれて失敗した。デメトリオスはロドス島を1年にわたって攻め、巨大な攻城塔を作ったが、落とせなかった。ロドスの人びとはその兵器を売った金で、港に太陽神の巨像を建てたと伝えられる。
紀元前301年、決戦の時が来た。小アジアのイプソスで、アンティゴノスとデメトリオスの軍は、セレウコスとリュシマコスの連合軍と向き合った(イプソスの戦い)。アンティゴノスは81歳だった。戦いの初め、デメトリオスの騎兵は敵の騎兵を打ち破り、勢いに乗って遠くまで追った。そのあいだに、セレウコスがインドから得た数百頭の象が割って入り、デメトリオスは本隊に戻れなくなった。孤立したアンティゴノスの歩兵は崩れ、あるいは寝返った。投げ槍が老将に降り注いだ。アンティゴノスは最後まで、デメトリオスが助けに来ると言っていたという。

アンティゴノスの死で、帝国を一つに戻す最後の試みは終わった。勝った側は彼の領土を分け合い、セレウコスの王国、プトレマイオスの王国、そしてマケドニアという三つの大きな国が並ぶヘレニズムの世界の形が定まっていく。
それでもアンティゴノスの家は滅びなかった。デメトリオスは各地を転戦したのち、一時マケドニアの王位に就いた。孫のアンティゴノス2世の代にマケドニアの王権は固まり、アンティゴノス朝として紀元前168年のピュドナの戦いでローマに敗れるまで続いた。