ティルス攻囲
概要
島の要塞を7か月かけて攻略。海に土手を築いて陸続きにした。
場所
33.27°N 35.20°E · レバノン・南レバノン県
関わった人(1)
アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · マケドニア側 · 総指揮本文
紀元前333年の秋、アレクサンドロス3世はイッソスの戦いでペルシア王ダレイオス3世を破った。だが彼はすぐには東へ向かわず、地中海の東岸を南へ下った。ペルシアには、フェニキアの諸都市の船を中心とする強力な艦隊がまだ残っていた。艦隊を持たないマケドニアが内陸へ進めば、背後の海から本国やギリシアを揺さぶられる。海で勝てないなら、陸から港をすべて奪って、艦隊の帰る場所を無くせばよい。
ビブロスやシドンは戦わずに門を開いた。ティルスも、はじめは服属の使者を送ってきた。ところがアレクサンドロスが、島にある都市の守り神メルカルトの神殿で犠牲を捧げたいと申し入れると、ティルスは拒んだ。ペルシア人もマケドニア人も島には入れない、と。ギリシア人はメルカルトを自分たちのヘラクレスと同じ神とみなしており、アレクサンドロスはヘラクレスを祖先と仰いでいた。

ティルスは本土から800メートルほど離れた島の上にあった。城壁は海際までせり出し、陸に面した側は特に高かったと伝えられる。二つの港を持ち、船も多い。かつてヒラムのティルスの時代から地中海交易で栄え、北アフリカのカルタゴを建てた母なる都市でもある(カルタゴの建設)。住民は、アッシリアやバビロニアの長い包囲にも耐えてきたこの島を、陸の軍隊が落とせるとは思っていなかった。
紀元前332年のはじめ、アレクサンドロスは海を埋めることにした。本土の側から島へ向かって、石と木材と土で幅60メートルほどの土手を築いていく。近くの古い町の瓦礫も運び込まれた。岸に近い浅いところは順調に進んだが、島に近づくにつれて海は深くなり、城壁からの矢と、船からの攻撃が作業員を襲った。

マケドニア側は土手の先に、獣の皮で覆った高い攻城塔を2基立てて身を守った。ティルスの人々は、古い馬運搬船に乾いた木や松脂、硫黄を詰め込み、船尾を重くして舳先を持ち上げ、風に乗せて土手へ突っ込ませた。塔は燃え上がり、さらに海からの攻撃と嵐で、土手の先は崩された。
アレクサンドロスは土手をさらに広く築き直させると同時に、艦隊を集めることにした。イッソスの勝利を知ったフェニキア諸都市の王たちが、ペルシアの艦隊を離れて自分の船とともに戻ってきていた。キプロスの王たちも120隻を率いて加わった。合わせて200隻を超える船を得て、マケドニアは初めて海の上でティルスを上回った。

艦隊がティルスの二つの港を封じると、包囲は最後の段階に入った。破城槌を積んだ船が城壁に横付けし、壁の弱いところを探して叩いた。南側の壁がついに崩れると、アレクサンドロスは渡し板を架けて兵を送り込み、同時に艦隊が両方の港に突入した。包囲が始まってから、およそ7か月がたっていた。
ティルスの人々は、包囲中に捕らえたマケドニア兵を城壁の上で殺し、遺体を海に投げ込んでいた。報復は苛烈だった。アッリアノスは、戦いの中で約8000人が殺され、約3万人が奴隷として売られたと書く。クルティウスは、2000人が海岸で磔にされたと伝えるが、これは彼の記述にしか見えない。神殿に逃げ込んだ者と、居合わせたカルタゴの使節団は助命された。ティルスはカルタゴに救援を求めていたが、カルタゴは送れなかった。
アレクサンドロスは念願どおりメルカルトの神殿に犠牲を捧げ、続いて南のガザを2か月かけて落とし、エジプトへ入った。東地中海の港は、こうしてすべて彼のものになる。ペルシア艦隊は寄るところを失って崩れ、彼は後顧の憂いなく東へ向かい、翌年ガウガメラの戦いでダレイオスと決戦する(アレクサンドロスの東方遠征)。

ティルス自体はその後も町として続いたが、地中海交易の主役の座は、まもなくアレクサンドロスがエジプトに建てるアレクサンドリアに移っていった。そして土手は残った。潮の流れが運んだ砂がその両側に積もり、長い年月のうちに陸地は広がった。ティルスはいまでは島ではなく、本土とつながった半島になっている。一人の王の攻囲が、地形そのものを変えたのである。