人物

セレウコス1世

Seleucos I Nicator
BC358年頃 – BC281年(享年77・推定)
セレウコス朝重要度 4

概要

アレクサンドロスの将軍。帝国の東半分を継ぎ、セレウコス朝を開いた。

所属

セレウコス朝

関わったできごと(3)

ディアドコイ戦争BC322年 · 生き残ったペルディッカスの死BC321年 · 刺したイプソスの戦いBC301年 · 参戦

本文

セレウコスは紀元前358年ごろ、マケドニア王国の北部の町エウロポスで、アンティオコスという貴族の子として生まれた。のちのアレクサンドロス3世より2歳ほど年上で、王子の身近に仕える貴族の子弟の一人として育ったと考えられている。少年時代のことは、ほとんど分かっていない。

紀元前334年、アレクサンドロスがペルシア帝国への遠征に出発すると、セレウコスもそれに従った(アレクサンドロスの東方遠征)。目立った働きが記録に現れるのは、遠征の終わり近く、インダス川の支流で行われたヒュダスペス川の戦いで、王の身辺を守る精鋭の歩兵部隊を率いて戦ったときである。紀元前324年、アレクサンドロスはペルシアの都スーサで、自分と側近たちをペルシアやイランの貴族の娘と一斉に結婚させた。セレウコスの相手は、中央アジアのソグディアナで激しく抵抗した武将スピタメネスの娘アパマだった。王の死後、ほとんどの将軍はこのときの妻と別れたが、セレウコスはアパマを生涯の妻とし、その息子が跡を継いだ。王朝の血には、最初からイランの血が流れていたことになる。

ヒュダスペス川の戦いに関わる図版:Alexander the Great (356-23 BC) and Porus (oil on canvas)
ヒュダスペス川の戦いWikimedia Commons Francesco Fontebasso · Public domain

紀元前323年、アレクサンドロスがバビロンで急死すると(アレクサンドロスの死)、広大な帝国は後継者を名のる将軍たちの争いに投げ込まれた(ディアドコイ戦争)。これらの将軍たちをディアドコイ(後継者たち)と呼ぶ。セレウコスは、はじめ帝国の摂政ペルディッカスのもとで騎兵を率いたが、ペルディッカスがエジプト遠征に失敗すると、ほかの将校とともに彼を殺した。その後の将軍たちの取り決めで、紀元前321年ごろ、メソポタミアの要地バビロニアの総督となった。

だが、アジアで最大の力を持っていたのは隻眼の将軍アンティゴノスだった。紀元前316年、アンティゴノスに追われたセレウコスは、わずかな騎兵とともにバビロンを捨て、エジプトのプトレマイオス1世のもとへ逃げ込んだ。紀元前312年、プトレマイオスとともにパレスティナのガザでアンティゴノスの息子デメトリオスを破ると、セレウコスは千人に満たない兵を連れてバビロンへ向かい、町を取り戻した。バビロンの人々は彼を迎え入れたという。このバビロン帰還の年が、のちにセレウコス紀元と呼ばれる暦の起点となった。年を王の在位で数えるのではなく、一つの起点から通して数えるこの暦は、王朝が滅んだ後も、西アジアの各地で何百年も使われ続けた。

セレウコス1世のブロンズ像(ナポリ国立考古学博物館)
セレウコス1世のブロンズ像(ナポリ国立考古学博物館)Wikimedia Commons Allan Gluck · CC BY 4.0

セレウコスはその後、イラン高原から中央アジアまで、かつてのアレクサンドロスの東方の領土を次々に従えていった。インダス川を越えたところで、インドに新しい帝国を築いていたチャンドラグプタと向き合った。戦いの詳しい経過は伝わっていないが、紀元前303年ごろ、二人は条約を結んだ。セレウコスはいまのアフガニスタン南部などの土地をチャンドラグプタに譲り、代わりに500頭の戦象を受け取った。両家の間で婚姻を結ぶ約束も交わされたとされる。セレウコスはギリシア人のメガステネスを使節としてマウリヤ朝の都に送り、メガステネスの書いたインドの見聞録は、古代のギリシア人がインドを知る重要な手がかりとなった。

この象が、ディアドコイ戦争の決着をつけた。紀元前301年、小アジアのイプソスで、セレウコスはリュシマコスらと組んで、80歳を超えたアンティゴノスと戦った(イプソスの戦い)。セレウコスの象の部隊は、勝ち進んで深追いしたデメトリオスの騎兵が戦場に戻るのを阻み、孤立したアンティゴノスの歩兵は崩れた。アンティゴノスは討ち死にした。この勝利で、セレウコスはシリアを手に入れた。

イプソスの戦いに関わる図版:The Battle of Ipsus
イプソスの戦いWikimedia Commons James D. McCabe · Public domain

セレウコスは、各地に新しい都市を建てた。チグリス川のほとりには、バビロンに代わる新しい都としてセレウキアを建て、のちにバビロンは寂れていった。シリアには、父の名にちなむアンティオキアをはじめ、自分や妻、息子の名をつけた都市をいくつも建てた。アンティオキアは、のちにローマ帝国の東方で最も大きな都市の一つとなる。これらの都市にはギリシア人やマケドニア人の兵士や入植者が住み、ギリシアの言葉と文化が西アジアに根を下ろしていった。

プルタルコスは、セレウコスの家族について一つの話を伝えている。息子のアンティオコスが重い病にかかり、医師が調べると、父の若い後妻ストラトニケに恋い焦がれていることが分かった。それを知ったセレウコスは、ストラトニケを息子の妻として与え、二人に帝国の東方を治めさせたという。どこまで事実かは分からないが、セレウコスが広大な領土を息子と分けて治めたことは確かである。

王直属の精鋭歩兵ヒュパスピスタイ。セレウコスはペルシア遠征でこれを率いた
王直属の精鋭歩兵ヒュパスピスタイ。セレウコスはペルシア遠征でこれを率いたWikimedia Commons Peltast at English Wikipedia aka Johnny Shumate. For more illustrations email shumate_j@bellsouth.net · Public domain

晩年、セレウコスはかつての盟友リュシマコスとも争った。紀元前281年、小アジアのコルペディオンで80歳前後のリュシマコスを破って戦死させ、アレクサンドロスの将軍たちの中で、ほぼ最後の生き残りとなった。勝利の後、故郷のマケドニアの王位を得ようと、海を渡ってヨーロッパに入った。ところがその直後、保護を与えていたプトレマイオス1世の息子プトレマイオス・ケラウノスに刺し殺された。77歳前後だった。半世紀前に故郷を出てから、ついにマケドニアの地を治めることはなかった。

セレウコスの建てた王国は、地中海の東岸からイラン、中央アジアにまで及んだ(セレウコス朝)。しかし、あまりにも広く、多くの民族を抱えていた。彼の死から数十年のうちに、東方ではバクトリアが独立し、イラン北東部ではパルティアが自立した。王国は少しずつ縮み、最後はシリアの一角に押し込められて、紀元前63年、ローマのポンペイウスによって滅ぼされた。

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