ゴルディオンの結び目

概要
解いた者がアジアの王になる、という結び目を、剣で断ったと伝わる。端を抜いたという別の話もある。以後、力ずくで問題を片づけることの譬えになった。
場所
39.66°N 31.99°E · トルコ・アンカラ県
関わった人(1)
アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · 断った本文
アナトリアの内陸、サンガリオス川のほとりにゴルディオンという町があった。かつてのフリギア王国の都で、ミダス王のフリギアの時代に栄え、その後キンメリア人に荒らされたと伝わる(キンメリア人のゴルディオン破壊)。町には、こんな言い伝えが残っていた。昔、フリギアの人々が王を立てられずに困っていたとき、最初に牛車に乗って神殿に来た者を王にせよ、という神託が下った。そこへ貧しい農夫ゴルディアスが、牛車で妻と息子を連れて現れた。人々は彼を王にし、その息子がミダスになった。
ミダスは、父の乗ってきた牛車を感謝のしるしとしてゼウスの神殿に納めた。車の轅(ながえ)と軛(くびき)は、山茱萸(さんしゅゆ)の木の皮で作った紐で結わえられていた。結び目は幾重にも絡み合い、端がどこにあるのか見えなかった。この結び目を解いた者がアジアを支配する、と言い伝えられていた。

紀元前334年、マケドニアのアレクサンドロスはヘレスポントスを渡って小アジアに入り(アレクサンドロスの東方遠征)、グラニコス川でペルシアの太守たちの軍を破った。冬のあいだ南の海岸沿いの町々を従え、翌333年の春、内陸に上ってゴルディオンに着いた。ここで、本国から来た新兵と、別の道を進んでいたパルメニオンの軍が合流することになっていた。
町に入ると、アレクサンドロス3世は城山の神殿に上り、評判の車を見た。そして結び目に挑んだ。このとき22歳。ペルシアの大王の軍とはまだ一度も正面から戦っておらず、遠征の先行きは見えていなかった。結び目が解けなければ、それ自体が凶兆として兵の間に広まりかねなかった。ゴルディオンは、エーゲ海の沿岸からアナトリアの内陸を抜けて東へ向かう幹線の途中にあり、ペルシアの大王が整えた王の道もこの近くを通っていた。ここから先は海を離れ、大王の本拠へ向かって内陸を進むことになる。言い伝えのある町で結び目に挑んだのは、その門出に吉兆を求める意味もあったと考えられている。
その後どうしたかについて、古代の伝記は二つの話を伝える。多くの著者は、解き方が見つからないので剣を抜いて結び目を断ち切った、と書く。ローマ時代のアリアノスとプルタルコスは、遠征に同行したアリストブロスの記録として、別の話も載せている。轅を貫いて結び目を留めていた木の栓を抜き取り、軛を外した、というものだ。アリアノス自身は、どちらが本当か自分には言えない、と断っている。
いずれにせよ、アレクサンドロスは結び目の言い伝えを果たしたことにされた。アリアノスによれば、その夜、雷鳴と稲妻があり、王は神が認めたしるしとして翌日いけにえを捧げたという。この話がどこまで当時のもので、どこまで後から整えられたかは分からない。遠征の宣伝として広められた面があったとみる研究者も多い。
ゴルディオンを発ったアレクサンドロスは、その年の秋、イッソスの戦いでダレイオス3世本人の軍を破った。2年後にはガウガメラで決着をつけ、言い伝えのとおりアジアの王になった。後から振り返れば、結び目の話はその予告になっていた。

「ゴルディオンの結び目を断つ」という言い回しは、のちにヨーロッパの言葉に広く入り、込み入った難問を大胆な一手で片づけることを指すようになった。ほめ言葉にもなれば、手順を無視した乱暴さを皮肉る言葉にもなる。
ゴルディオンの遺跡は、1950年からアメリカの調査隊が本格的に掘っている。町の外には大小100基を超える墳丘墓が並び、最大の墳丘の中から、木で組んだ墓室と、宴の器を並べたままの王の遺骸が見つかった。かつてはミダスの墓と考えられたが、木の年輪から紀元前740年ごろの築造と分かり、いまはミダスの父の世代の王の墓とみられている。神殿の牛車そのものは、見つかっていない。