パルメニオンの暗殺
概要
息子フィロタスが陰謀を密告しなかった罪で拷問され、殺された。王は父も生かしておけないと、エクバタナに使者を送って、70歳の老将を刺させた。フィリッポス以来の副官。以後、王に逆らう者はいなくなった。
場所
34.80°N 48.51°E · イラン・ハマダーン
関わった人(1)
パルメニオンBC400年頃–BC330年 · 殺された本文
パルメニオンは、アレクサンドロス3世の父フィリッポス2世の時代から、マケドニア軍の柱だった。フィリッポスは、アテナイ人は毎年10人もの将軍を選ぶが、自分は長年かかってたった一人の将軍しか見つけられなかった、それがパルメニオンだ、と語ったと伝えられる。フィリッポスが暗殺されて20歳の息子が王位を継いだとき、すでに60代だったパルメニオンは若い王を支持し、その即位を固めるのに力を貸した。
紀元前334年にアレクサンドロスの東方遠征が始まると、パルメニオンは王に次ぐ副将として、戦場では常に左翼を任された。グラニコス、イッソス、ガウガメラ。王が右翼の騎兵を率いて敵の中央へ突き込む間、パルメニオンの左翼は敵の猛攻に耐え続けた。彼の息子たちも軍の要職にあった。長男フィロタスは王の親衛の騎兵隊である「仲間騎兵(ヘタイロイ)」の司令官、次男ニカノルは歩兵の精鋭部隊の指揮官だった。一族は軍の中に深く根を張っていた。

伝えられる話の中で、パルメニオンはいつも慎重な忠告者として登場し、王はいつもそれを退ける。グラニコス川では、日が暮れかけているので渡河は翌朝にすべきだと勧め、王は即座に渡った。ペルシア王ダレイオス3世が、ユーフラテス川より西の領土と娘を差し出して講和を申し出たとき、私がアレクサンドロスなら受ける、とパルメニオンが言うと、王は、私もパルメニオンならそうする、と答えた。ガウガメラの前夜には夜襲を勧めたが、王は勝利を盗むことはしないと退けた。ペルセポリスの宮殿を焼くことにも反対したが、宮殿は焼かれた(ペルセポリス炎上)。
遠征が進むにつれ、王とマケドニアの古参の将兵との間には溝ができていった。王はペルシアの宮廷の礼儀や衣装を取り入れ、ペルシア人の貴族を重く用いた。古いマケドニアの戦士たちには、それが王がよそ者の専制君主に変わっていく姿に見えた。紀元前330年、ペルシア王ダレイオスが部下に殺されると、王は遠征をさらに東へ続けることを決めた。パルメニオンは、メディアの都エクバタナに残され、奪ったペルシアの財宝と、軍の後方の補給路を守ることになった。主力の軍から外されたのである。
その年の秋、軍はいまのアフガニスタン西部、ドランギアナ地方のフラダに入った。ここで一つの陰謀が明るみに出た。ディムノスという王の側近の一人が、王の暗殺を企てていると恋人の若者に打ち明けた。若者はそれを兄に話し、兄は王に知らせてもらおうとフィロタスに伝えた。ところがフィロタスは、二日のあいだ、それを王に伝えなかった。取るに足らない話だと思った、と彼は後に弁明している。兄は別の経路で王に知らせ、ディムノスは捕らえられる際に自害した、あるいは抵抗して殺されたという。
フィロタスは以前から評判がよくなかった。傲慢で、自分の富と父の功績を鼻にかけていた。王の勝利の多くは父と自分の働きのおかげだ、と愛人に漏らし、その言葉が王の耳に届いていたとプルタルコスは伝えている。王の側近のクラテロスや、王の親友ヘファイスティオン、そしてフィロタスの妹の夫だったコイノスまでが、フィロタスを厳しく罰するよう求めた。マケドニアの慣習に従って、軍の集会が裁きの場になった。王自らが彼を訴え、集会はフィロタスを有罪とした。拷問を受けた彼は、陰謀への関与を自白したとされる。自白の中で父の名を挙げたかどうかは、はっきりしない。フィロタスは処刑された。槍で殺されたとも、石で打ち殺されたとも伝えられる。

息子が処刑された以上、父を生かしておくことはできなかった。マケドニアには、反逆者の一族をも罰する慣習があった。何より、エクバタナで大軍と莫大な財宝を握る老将が、息子の死を知れば何をするか分からない。王は、パルメニオンの友人でもあった将校ポリュダマスを使者に選び、エクバタナにいる王の配下の将軍たちへの命令を持たせた。ポリュダマスは足の速いラクダに乗って砂漠を横切り、普通なら一か月はかかる道のりを11日で駆け抜けたとクルティウスは書く。息子の処刑の報せが届く前に着かなければならなかった。
エクバタナの庭園で、パルメニオンは将軍たちに迎えられ、使者から手紙を受け取った。王からの手紙と、息子フィロタスの名で書かれた手紙である。パルメニオンがその手紙を読んでいる最中に、将軍たちが剣で襲いかかり、彼を刺し殺した。70歳だった。報せを聞いた兵たちは、自分たちの将軍が殺されたことに激しく怒り、騒ぎになった。将軍たちが王の命令書を兵たちに読み聞かせると、兵たちはようやく静まり、遺体を葬ることを許された。首は王のもとへ送られたという。
パルメニオンは、この遠征で三人の息子すべてを失ったことになる。末の息子ヘクトルはエジプトでナイル川に溺れて死に、次男ニカノルはこの直前に病で死んでいた。父の代から王家に仕えた一族は、ここで絶えた。
この事件のあと、王の周りでは粛清が続いた。2年後には、酒宴で王を批判した古参の将軍クレイトスが、王自身の手で槍で刺し殺された(クレイトスの殺害)。さらにその翌年には、王の前でひざまずく礼を拒んだ歴史家カリステネスが、陰謀に関わったとして捕らえられ、死んだ(カリステネスの処刑)。王をいさめ、王に逆らう者は、次々に姿を消していった。
パルメニオンがいつも慎重を勧め、王がいつも大胆に退けた、という一連の話を、そのまま信じてよいかには疑問が出されている。これらの話は、遠征に同行して王の事績を書いたカリステネスや、王の死後に書かれた記録にさかのぼると考えられている。パルメニオンの慎重さを強調するほど、王の大胆さは引き立つ。そして処刑された者の言葉が、その死を正当化するように書き残されることもある。現代の研究者の中には、王はパルメニオン一族の軍内での大きな力を以前から危ぶんでおり、フィロタスの件はそれを取り除く口実だった、と見る人もいる。
古代の歴史家たちは、この事件のあと、王に公然と逆らう声が目に見えて少なくなったと描いている。クルティウスは、王が兵たちの故郷への手紙をひそかに開かせ、不満を書いた者を一つの部隊に集めたという話も伝えている。父の代からの老将の死は、遠征軍の中で王の意志に逆らう声が消えていく始まりだった。