ペルセポリス炎上
概要
アケメネス朝の王宮が焼かれた。事故か報復かで古代から説が分かれる。
場所
29.94°N 52.89°E · イラン・ファールス州
関わった人(1)
アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · 当人本文
ペルセポリスは、ダレイオス1世が紀元前518年ごろに造営を始めた王宮の町である。行政の中心はスーサやバビロンにあり、ここは新年の祭りや儀礼のための場所だったと考えられている。巨大な謁見殿(アパダーナ)の階段には、帝国じゅうの民族が貢ぎ物を携えて王のもとへ進む浮き彫りが刻まれた。クセルクセス1世とその後の王たちも宮殿を建て増し、ここはアケメネス朝ペルシアの権威そのものを形にした場所になった。
ガウガメラの戦いでダレイオス3世を破ったアレクサンドロス3世は、バビロン(アレクサンドロスのバビロン入城)、スーサを経て、紀元前330年の初めにペルシア本土へ入った。山あいの「ペルシアの門」で太守アリオバルザネスの抵抗を受けたが、これを迂回して突破し、ペルセポリスに着いた。王宮の町は守る者もなく明け渡された。

ディオドロスやクルティウスは、アレクサンドロスがペルセポリスを「アジアで最も憎むべき町」と呼んだと書く。道中では、かつてペルシアに捕らえられ、手足を切られたギリシア人の一団が王を出迎え、その姿が将兵の怒りをかき立てたという話も伝えられている。どこまで事実かは分からないが、遠征の大義が報復にあったことを、歴史家たちはこの場面に重ねて描いている。
アレクサンドロスは、市街を兵士の略奪にゆだねたと伝えられる。宝物庫には歴代の王が蓄えた金銀があり、ディオドロスは12万タラントンと書き、プルタルコスは運び出すのに1万組のラバと5000頭のラクダが要ったと書いている。数字はそのまま信じられないが、遠征の財政を一変させる額だったことは確かである。アレクサンドロスはここに数か月とどまり、春の終わりごろ、出発の前に王宮が焼けた。

なぜ焼いたのかについて、古代の歴史家の話は二つに分かれる。アリアノスは、ペルシア戦争でクセルクセスがアテナイを焼いたことへの報復として、アレクサンドロスが意図して火を放ったと書く。重臣パルメニオンは、すでに自分のものになった財産を壊すことになる、ペルシア人もこれでは従わない、と反対したという。一方、プルタルコス、ディオドロス、クルティウスは、宴の席の出来事として描く。アテナイの遊女タイスが、酔った王に、クセルクセスが焼いたアテナイの仇をここで討とう、と持ちかけ、王と酒宴の客たちが松明を手に宮殿へ向かったという筋である。
二つの話は、必ずしも食い違っていない。宴での勢いが、もともとあった報復という名目に火をつけた、と読むこともできる。遠征はギリシア人のための物語「ペルシア戦争」の報復として始められており、その名目を果たしたと示すことには政治的な意味があった。発掘では、とくにクセルクセスに結びつく建物が激しく焼けていることが指摘されている。宝物庫が先に空にされていたことも、少なくとも一部は計画されていたという見方の根拠になっている。

ただ、報復の名目は長くは使われなかった。この年の夏、ダレイオス3世は逃げる途中で配下のベッソスに殺され(ダレイオス3世の死)、アレクサンドロスは自分をペルシア王の後継者として示し始める。ペルシア風の衣装や宮廷儀礼を取り入れたことは、マケドニアの将兵の反発を招いた。アリアノスは、後年アレクサンドロスがペルセポリスに戻ったとき、焼いたことを悔いたと書いている。焼き払った王宮の主の座に、自分が座ろうとしていたことになる。
焼けたことが、皮肉にも後世に資料を残した。1930年代の発掘で、城壁や宝物庫の跡から、エラム語などで書かれた行政文書の粘土板が大量に見つかった。城壁から出た文書群だけで、断片を含めると数万点にのぼり、ダレイオス1世の時代に王宮の仕事に就いた人々への食料や銀の支給を細かく記録している。崩れた建物の下に埋もれたことが保存につながったとされる。そこには女性の職人の名も多く、出産した女性に特別な配給が与えられた記録まである。王が誇った浮き彫りと並んで、それを支えた人々の暮らしがわかるのは、この町の焼け跡からである。

王宮は再建されなかった。近くには後の時代に町が営まれたが、焼けた宮殿は石の柱と門と基壇を残して、砂に埋もれていった。後世のイラン人はここを伝説の王ジャムシードの玉座と呼び、誰が建てたかは忘れられた。いま見られる遺跡の姿は、1930年代にシカゴ大学の調査隊が本格的に掘り出したものである。1979年には世界遺産に登録された。