テーバイの破壊
概要
フィリッポスの死で「アレクサンドロスは死んだ」と噂が立ち、テーバイが守備隊を囲んだ。20歳の王は北の遠征から13日で戻り、街を落として、6000人を殺し、3万人を売り、詩人ピンダロスの家だけ残して壊した。ギリシアは黙った。翌年、アジアへ。
場所
38.32°N 23.32°E · ギリシア
関わった人(1)
アレクサンドロス3世BC356年7月20日(21日説あり)–BC323年6月10日(11日説あり) · 王本文
テーバイは、ギリシア中部のボイオティア地方の中心の都市で、神話ではカドモスが建て、オイディプスが王となった町である。紀元前4世紀の前半には、エパメイノンダスの率いるテーバイの軍がレウクトラの戦いでスパルタを破り、一時はギリシアの覇者となった。少年時代のフィリッポス2世は、人質としてこのテーバイで暮らし、エパメイノンダスの軍略を間近に見ている。だが紀元前338年、テーバイとアテナイの連合軍はカイロネイアの戦いでフィリッポスに敗れ、テーバイの城山カドメイアにはマケドニアの守備隊が置かれた。
紀元前336年、フィリッポスが暗殺されると(フィリッポス2世暗殺)、20歳の息子アレクサンドロス3世が王位を継いだ。父の死を機に、ギリシアの諸都市はマケドニアの支配から抜け出そうと動き出す。アレクサンドロスはすばやく南へ下って諸都市を抑え、父の後を継いでギリシアの同盟の盟主となった。翌335年の春には北へ向かい、トラキアやイリュリアの部族を討って、ドナウ川まで兵を進めた。

その遠征のさなか、アレクサンドロスがイリュリアで戦死したという噂がギリシアに流れた。テーバイでは、追放されていた人々が町に戻って反マケドニアの勢力が立ち上がり、カドメイアの守備隊を取り囲んだ。アテナイの政治家デモステネスは、反乱を励まし、武器のための資金を送ったと伝えられる。
知らせを受けたアレクサンドロスは、北の山地から軍を返し、強行軍で南下した。アリアノスの記録によれば、2週間ほどでボイオティアに入り、テーバイの前に現れたという。アレクサンドロスは、はじめは降伏の機会を与えた。だがテーバイの人々は城壁の上から、ペルシアの大王と手を組んでギリシアの自由のために戦おう、と呼びかけて応じなかったとされる。

戦いは、マケドニアの将ペルディッカスの部隊が命令を待たずに攻めかかったことから始まった、とプトレマイオスの記録は伝える。アレクサンドロスの軍は城内になだれ込み、カドメイアの守備隊も内側から打って出た。市内では激しい殺戮が起き、テーバイの人々のうち6000人が殺されたとされる。
町の運命を決める会議には、テーバイに長く苦しめられてきた近隣のボイオティアの諸都市やフォキス、プラタイアの代表が加わった。決定は過酷だった。町は徹底的に破壊され、生き残った3万人ほどが奴隷として売られ、土地は周辺の都市に分け与えられた。アレクサンドロスは、神殿と、かつてマケドニアの王をたたえる詩を作った詩人ピンダロスの家だけは壊さず、その子孫も許したと伝えられる。

ギリシアの都市は震え上がった。アテナイは、デモステネスら反マケドニアの政治家を引き渡すよう求められ、使節を送って許しを請うた。アレクサンドロスは最後には要求を和らげたが、ギリシアは静まった。翌紀元前334年の春、アレクサンドロスは後ろを気にすることなくヘレスポントスを渡り、ペルシアへ向かう(アレクサンドロスの東方遠征)。
プルタルコスは、アレクサンドロスがのちにテーバイへの仕打ちを悔い、テーバイの人々の頼みには寛大に応じたと書いている。友人クレイトスを酒の席で殺したことや、インドで兵が進軍を拒んだことを、テーバイを守る神ディオニュソスの怒りのせいだと考えた、という話もある。テーバイの町は、王の死後の紀元前316年、マケドニアの実力者カッサンドロスによって再建された。文明の守り手を自任した若い王は、最初から破壊者の顔も持っていた。