シュラクサイ攻囲とアルキメデスの死
概要
アルキメデスの仕掛けが2年ローマ軍を退けたが、陥落時に本人は兵に殺された。
場所
37.08°N 15.29°E · イタリア・シチリア州シラクーサ
関わった人(2)
アルキメデスBC287年頃–BC212年 · シュラクサイ側 · 防衛マルケルスBC270年–BC208年 · ローマ側の指揮本文
シチリア島の東岸のシュラクサイ(いまのシラクーザ)は、古代の地中海で最も大きく豊かなギリシア人の都市の一つだった。紀元前3世紀の後半、この町を半世紀にわたって治めていたのが、王ヒエロン2世である。ヒエロンは、第一次ポエニ戦争の初めにローマと和を結んで以来、ローマの忠実な同盟者であり続けた。
そのシュラクサイに、アルキメデスがいた。紀元前287年ごろに生まれ、てこの原理や浮力の原理を明らかにし、円周率を計算し、球と円柱の体積の関係を突き止めた数学者である。ヒエロン王とも親しく、王の求めに応じて、さまざまな機械を考案した。王冠が純金かどうかを確かめる方法を風呂の中で思いつき、「分かった(エウレカ)」と叫んで裸のまま町へ飛び出した、という有名な話も伝わっている。ただしこれは、後世のローマの著作家が記した逸話である。
紀元前216年、ハンニバルがカンナエの戦いでローマに大勝すると、イタリアやシチリアの情勢は大きく揺れた。その翌年、ヒエロンが90歳を超える高齢で世を去り、まだ若い孫のヒエロニュモスが王位を継いだ。ヒエロニュモスはカルタゴに近づき、ローマとの同盟を捨てた。ヒエロニュモス自身はまもなく暗殺されたが、町の実権を握ったのはハンニバルに近い者たちで、シュラクサイはカルタゴの側についた。

ローマは、カンナエの後の苦境を立て直した将軍マルケルスをシチリアに送り、紀元前214年ごろから、海と陸の両方からシュラクサイを攻めた。マルケルスは、何隻もの船をつないで巨大なはしごを載せた攻城の仕掛けまで用意して、海側の城壁に迫った。
そこで立ちはだかったのが、70歳を超えていたアルキメデスの機械だった。ポリュビオスによれば、城壁からは、遠くの敵には大きな投石機が、近づいた敵には小さな投石機や弩が、狙いに応じて石や矢を浴びせた。城壁の上から突き出した長い腕の先の鉄の鉤が、近寄ったローマの船の舳先をつかんで吊り上げ、そのまま落として転覆させたり、岩に叩きつけたりした。ローマの兵は、城壁から綱や木が少しでも突き出すのを見ると、アルキメデスの仕掛けだと叫んで逃げ出すようになったとプルタルコスは書いている。

鏡で日光を集めてローマの船を焼いた、という話も広く知られている。だが、この話は同じ時代に近い史料には出てこず、何百年も後の著作家が書いたものである。現代に行われた再現の試みでは、条件を整えれば木を焦がせることはあっても、動く船を戦場で焼くのは難しいという結果が多い。後世に付け加えられた伝説と考えられている。
力攻めをあきらめたマルケルスは、町を囲んで兵糧攻めに切り替えた。包囲はおよそ2年に及んだ。紀元前212年、町の人々が女神アルテミスの祭りで酒宴を開いている夜、ローマ兵は守りの手薄な城壁をはしごで越え、町の高台の一角を奪った。海に突き出した島の部分などはなおしばらく持ちこたえたが、やがて町全体が落ちた。

マルケルスは、アルキメデスを殺さずに連れてくるよう命じていたと伝えられる。だが、アルキメデスはローマ兵の手にかかって死んだ。プルタルコスは、いくつかの話を並べて伝えている。地面に図形を描いて考え込んでいたアルキメデスが、ついて来いと命じた兵士に、問題を解き終えるまで待てと答えて斬られたという話、観測の道具を運んでいたところを、金目のものと思った兵士に殺されたという話などである。「私の円を乱すな」という言葉は、こうした話がのちに形を整えられたものとされる。マルケルスはその死を悲しみ、遺族を手厚く扱ったという。
マルケルスは、シュラクサイの神殿や広場を飾っていた彫刻や絵画を、戦利品としてローマへ運んだ。リウィウスは、これがローマの人々がギリシアの美術に夢中になるきっかけになったと書いている。

アルキメデスの墓は、彼の望みどおり、球とそれに外接する円柱の図が刻まれていたという。およそ140年後、シチリアに赴任したキケロは、茂みに埋もれて忘れられていたその墓を、刻まれた図を手がかりに見つけ出したと自ら書き残している。