レグルスのアフリカ遠征
概要
ローマがアフリカに上陸し、カルタゴの手前まで来て、過酷な講和を突きつけた。カルタゴはスパルタの傭兵隊長を雇って象で反撃し、レグルスを捕えた。捕虜交換の使者としてローマに送られ、講和に反対して自分から戻り、殺されたと伝わる。
場所
36.81°N 10.18°E · チュニジア
関わった人(1)
レグルス?–BC250年頃 · 執政官本文
紀元前264年、イタリア半島を手に入れたばかりのローマと、北アフリカの海の大国カルタゴは、シチリア島をめぐって戦争を始めた(第一次ポエニ戦争)。カルタゴは強い海軍を持ち、ローマはほとんど軍艦を持っていなかった。ローマは急いで艦隊を造り、敵の船に橋を掛けて乗り移る仕掛けを工夫して、紀元前260年のミュラエの海戦で初めて海で勝った。それでもシチリアでの戦いは長引いた。ローマは、敵の本国アフリカを直接突くことにした。
紀元前256年、執政官マルクス・アティリウス・レグルスと同僚のルキウス・マンリウス・ウルソが率いるローマの大艦隊が、シチリアの南岸を進んだ。迎え撃つカルタゴの艦隊とのあいだで、エクノモス岬の海戦が起きた。歴史家ポリュビオスは、ローマ側330隻、カルタゴ側350隻と伝え、乗り組んだ兵と漕ぎ手を合わせると両軍で30万人近くになるとした。数字には誇張があるかもしれないが、古代でも最大級の海戦だったことは確かである。ローマが勝ち、艦隊はアフリカへ渡った。

ローマ軍はカルタゴの東、ボン岬の近くのアスピス(クルペア)に上陸し、周りの村々を荒らして、多くの家畜と2万人もの捕虜を得たと伝えられる。やがて元老院の命令で、マンリウスは艦隊の大部分と捕虜を連れてローマへ帰った。アフリカに残ったのはレグルスで、手もとには歩兵1万5000、騎兵500ほどしかいなかった。
それでもレグルスは勝ち続けた。アディスの町の近くでカルタゴ軍を破り、カルタゴからわずか十数キロのチュニスを奪った。カルタゴの周りの土地では、支配を受けていたアフリカの人々が反乱を起こし、町には逃げ込んだ人々があふれ、食べ物が足りなくなった。カルタゴは講和を申し入れた。

レグルスの示した条件は過酷だった。ローマ時代の後の歴史家カッシウス・ディオによれば、シチリアとサルデーニャを手放し、ローマの捕虜は無償で返し、カルタゴの捕虜は身代金を払って取り戻し、戦費を払い、毎年貢ぎ物を納め、軍艦は一隻しか持たない、というものだった。レグルスは、自分の任期のうちに戦争を終わらせた手柄を立てたかったのだともいわれる。カルタゴは、これをのむくらいなら戦うほうがましだと考えた。
カルタゴはギリシアから傭兵を集めていた。そのなかに、スパルタで鍛えられたクサンティッポスという男がいた。彼は、カルタゴの将軍たちが象と騎兵という最大の強みを、丘や森の多い土地で使っているのが負けの原因だと指摘した。平らな野で戦えば勝てる、と。カルタゴ人は彼に軍の訓練と指揮を任せた。

紀元前255年の春、チュニスに近い平野で両軍がぶつかった。カルタゴ軍の前には100頭ほどの象が並び、両翼には4000の騎兵がいた。象の突進がローマの歩兵の隊列を踏みにじり、数で劣るローマの騎兵はたちまち蹴散らされ、カルタゴの騎兵が背後に回り込んだ。ローマ軍はほとんど全滅し、逃げのびてアスピスにたどり着いたのは2000人ほどだった。レグルスは500人とともに捕らえられた。
不運は続いた。生き残りを救いに来たローマの艦隊は、帰り道にシチリアの南の沖で嵐に遭い、数百隻の船と大勢の兵を失った。クサンティッポスは勝利のあと、報酬を受け取ってカルタゴを去った。カルタゴ人が彼の名声をねたんで、帰りの船で殺させたという話も伝わるが、確かめようがない。ポリュビオスは、勝ち誇って過酷な条件を突きつけた男が数日のうちに捕虜となったことを、運命の移ろいやすさの教訓として書いた。

レグルスのその後については、ローマで有名な話が語り継がれた。紀元前250年ごろ、カルタゴは講和と捕虜の交換を求める使者にレグルスを加え、話がまとまらなければ戻ってくると誓わせてローマへ送った。元老院でレグルスは、講和にも捕虜の交換にも応じてはならないと説いた。そして、引き止める家族を振り切り、誓いを守ってカルタゴへ戻り、むごい拷問を受けて殺された、という。詩人ホラティウスはこれを歌い、キケロは、自分の利益より誓いと国を重んじた義務の手本として、レグルスをたびたび取り上げた。
ただし、この話は史実かどうか疑われている。同じ時代に近いポリュビオスは、捕らえられたあとのレグルスについて何も書いていない。一方で、ディオドロスの断片には、レグルスはカルタゴで捕らわれたまま死に、ローマにいたカルタゴ人の捕虜を、レグルスの妻が仕返しに虐待したので、元老院が止めさせた、という話が残る。妻の残酷な仕返しを覆い隠すために、カルタゴ人の残酷さを語る話が作られたのではないか、と考える研究者もいる。

アフリカ遠征は失敗に終わり、戦争はシチリアに戻って、さらに10年以上続いた。ローマが勝つのは紀元前241年である。100年あまりのちのカルタゴ滅亡まで、ローマ人は、誓いを守って死んだ将軍の物語を、カルタゴ人の残酷さとローマ人の徳を語る話として語り続けた。