トラシメヌス湖の戦い

概要
湖畔の隘路に誘い込んで行軍中のローマ軍を殲滅した。史上最大級の待ち伏せ。
場所
43.13°N 12.10°E · イタリア・ウンブリア州
関わった人(1)
ハンニバル・バルカBC247年–BC183年(一説にBC181年) · カルタゴ側 · 総指揮本文
紀元前218年の暮れ、ハンニバル・バルカはトレビアの戦いでローマ軍を破り、北イタリアで冬を越した。翌年の春、ローマは新しい執政官2人をそれぞれ別の道に置いて、カルタゴ軍の南下を待ち構えた。そのひとりがガイウス・フラミニウスである。平民の出で、元老院の有力者たちと対立しながら人気を得てきた政治家だった。
監察官としてローマから北へ延びる街道(フラミニア街道)を造らせ、北イタリアのガリア人の土地を平民に分け与える法を通した人物でもある。民衆には頼もしく、元老院の多くには危うく見えた。リウィウスの描くフラミニウスは、向こう見ずで神々を軽んじる男だが、その筆には元老院の側の評価が色濃く混じっていることに注意がいる。

ハンニバルは、ローマが予想した峠道を通らなかった。アペニン山脈を越え、雪解けで水に浸かったアルノ川の湿地帯を、数日にわたってほとんど眠らずに進んだ。この行軍で多くの兵と駄獣が倒れ、ハンニバル自身も目を患って片目の視力を失ったと伝えられる。前の冬を生き延びた最後の1頭の象に乗って湿地を渡ったと、リウィウスは書いている。
湿地を抜けた先に、フラミニウスの軍がいた。ハンニバルは決戦を挑まず、ローマ軍の目の前を素通りして南へ進み、エトルリアの農村を焼いた。ローマの同盟市が荒らされるのを、執政官が黙って見ているわけにはいかない。フラミニウスは同僚の到着を待たずに、カルタゴ軍の後を追った。

トラシメヌス湖の北岸には、湖と丘に挟まれた細長い平地がある。ハンニバルはその出口に重装の歩兵を置き、湖に沿った丘の斜面に軽装の兵と騎兵を伏せた。夕方に野営の火を遠くに見せて、主力がその先にいると思わせたともいう。
紀元前217年6月21日の朝、湖から霧が立ちのぼっていた。ローマ軍は十分な偵察をしないまま、行軍の隊列で隘路に入った。

リウィウスは、出陣の前にフラミニウスが馬から投げ出され、軍旗が地面から抜けなかったという凶兆を書き留めている。それでも執政官は占いを無視して進んだという筋だが、敗れた将を神々を軽んじた人物として描く、ローマの歴史家の型でもある。先頭が出口の敵に突き当たったところで、丘から一斉に伏兵が駆け下りた。霧で敵の数も位置も分からず、隊形を組み直す余裕もなかった。前後を塞がれ、片側は湖である。
戦いは3時間ほどで終わったとされる。フラミニウスは戦場で討たれた。歴史家リウィウスは、ガリア人の騎兵が彼を見つけて槍で突いたと書いている。湖へ逃げ込んで溺れた兵、鎧のまま沖へ出て首を落とされた兵も多かった。

戦いのあと、ハンニバルはフラミニウスの遺体を探させ、丁重に葬ろうとしたが、見つからなかったと伝えられる。戦場がどこだったのかは、いまも正確には決まっていない。湖岸の線が当時と変わっていることもあり、北岸のどの平地だったかをめぐって、いくつもの説が出されている。前衛の約6000人は包囲を突き破って丘へ逃れたが、翌日、カルタゴの騎兵隊長マハルバルに囲まれて降伏した。
ローマ側の死者はおよそ1万5千、カルタゴ側の損害は1500から2500ほどとされる。リウィウスによれば、戦いの最中に地震が起きたが、誰も気づかなかったという。後世の脚色を含むとしても、それほどの混乱だったと伝えたかったのだろう。数日後には、もう一人の執政官が先に送り出していた騎兵約4000も、ハンニバルに捕捉されて失われた。

ローマの広場に集まった市民に、法務官は「われわれは大きな戦いに敗れた」とだけ告げたとリウィウスは書く。ローマは非常時の独裁官にファビウス・マクシムスを選んだ。ファビウスは決戦を避け、敵の後をつけて補給を妨げる持久の策をとった。のろまと嘲られたが、続けて二度、正面から挑んで負けた後では、筋の通った判断だった。
ハンニバルは、捕虜のうちローマ市民は留め置き、イタリアの同盟市の兵は身代金なしで故郷へ帰した。敵はローマであって、イタリアの諸都市ではない、という呼びかけである。ローマの同盟網を内側から崩すことが、彼の戦略の柱だった。だがこのときは、中部イタリアの都市はほとんど離反しなかった。

ファビウスの持久策は、翌年には不評のうちに捨てられる。ローマは大軍を集めて決戦に出て、カンナエの戦いでさらに大きな敗北を喫することになる。