ファビウスの持久戦

概要
トラシメヌスのあと、独裁官ファビウスはハンニバルと戦わず、影のように追って、補給を断った。「クンクタトル(ぐずぐず屋)」と罵られ、任期が終わるとローマは会戦に出て、カンナエで負けた。あとで「ぐずぐず」が国を救ったと言われる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
ファビウス・マクシムスBC280年頃–BC203年 · 独裁官本文
紀元前217年の初夏、エトルリアのトラシメヌス湖のほとりで、ローマ軍は霧の中から襲いかかったカルタゴ軍に包まれ、壊滅した(トラシメヌス湖の戦い)。執政官フラミニウスは戦死し、およそ1万5000の兵が死んだ。前の年の冬には北イタリアのトレビア川でも大敗しており、ハンニバル・バルカがアルプスを越えてから、ローマは野戦で負け続けていた(第二次ポエニ戦争)。報せが届いたローマの広場で、法務官は群衆に向かって、我々は大きな戦いに敗れた、とだけ告げたと伝えられる。
非常の時には、任期を半年に限って一人に全権を預ける独裁官を立てるのが、ローマの古いしきたりだった。選ばれたのは、ファビウス・マクシムス、名はクィントゥス。すでに60歳前後で、二度の執政官を務めた古い名門の出の政治家である。唇にいぼがあったことから「ウェッルコスス(いぼのある人)」と呼ばれ、子供の頃はおとなしくのろまに見えたため「オウィクラ(子羊)」とあだ名されたと、プルタルコスは伝えている。

ファビウスは、まず神々への祈りと誓いをやり直させて、動揺した市民を落ち着かせた。そして戦場に出ると、誰もが予想しなかった戦い方を始めた。戦わないのである。ハンニバルの軍のあとを、つかず離れず、常に見下ろせる丘の上を選んでついて歩く。会戦には決して応じない。そのかわり、食糧や飼葉を集めに出た敵の小部隊を襲い、落伍した兵を討ち、村々の作物を先に刈り取って補給を断つ。ハンニバルの強みは野戦で敵を包み込む戦術と騎兵にあった。ならば野戦をしなければよい。敵地にいるカルタゴ軍は、時が経てば消耗し、援軍も補給も乏しくなる。ローマには、イタリアじゅうの同盟市の人と食糧がある。時間はローマの味方だった。
ハンニバルは、あらゆる手でファビウスを戦いに引き出そうとした。カンパニアの豊かなファレルヌスの野を荒らして見せつけたが、ファビウスは動かず、逆にハンニバルを山あいの峠に閉じ込めかけた。このときハンニバルは、牛の角に松明を結びつけて夜の山に放ち、ローマ兵がそちらへ気を取られたすきに軍を抜け出させたと伝えられる。また、ローマの領地を焼き払いながら、ファビウスの所領だけは焼かずに残した。ファビウスはカルタゴと通じている、とローマ人に疑わせるためである。ファビウスはその土地を売り払い、元老院が払おうとしなかった捕虜の身代金に充てたという。
ローマの中では、ファビウスへの不満が高まった。敵が目の前でイタリアを荒らしているのに、独裁官は丘の上から眺めているだけではないか。兵たちは自分たちを「ハンニバルの従者」と自嘲し、人々は彼を「クンクタトル(ぐずぐず屋)」と呼んであざけった。副官にあたる騎兵長官ミヌキウスは、ファビウスが都に戻っている間に小さな勝利を挙げ、それが大きく伝えられた。民会はミヌキウスにも独裁官と同じ指揮権を与えるという、前例のない決定を下した。
軍を二つに分けたミヌキウスは、まもなくハンニバルの仕掛けた罠に自分から飛び込み、包囲されて全滅しかけた。救ったのはファビウスだった。ミヌキウスは自分の兵を連れてファビウスの陣に来て、彼を父と呼び、指揮権を返したとリウィウスは書く。このときハンニバルは、山の上にずっとかかっていたあの雲が、とうとう嵐になって降ってきた、と言ったとプルタルコスは伝えている。
それでも、ローマ人の焦りは消えなかった。半年の任期が終わると、翌紀元前216年の執政官ウァッロとパウルスは、8万ともいわれる空前の大軍を率いて決戦を挑んだ。結果は、アプリアのカンナエでの歴史的な大敗だった(カンナエの戦い)。一日で数万のローマ兵が死に、南イタリアの多くの同盟市がハンニバルの側に寝返った。

カンナエのあと、ローマはファビウスのやり方に戻った。大きな会戦を避け、寝返った町を一つずつ囲んで取り戻し、ハンニバルを南イタリアに封じ込める。ファビウスは何度も執政官に選ばれ、紀元前209年には自ら港町タレントゥムを奪い返した。攻めに強いマルケルスは「ローマの剣」、粘り強いファビウスは「ローマの盾」と呼ばれた。ハンニバルはその後も十数年イタリアにとどまり、戦場では負けなかったが、ローマを屈服させることはできなかった。勝ち続けて、戦争に負けたのである。
ファビウスは最後まで慎重だった。若い大スキピオが、イタリアで待つのではなくアフリカに攻め込んでカルタゴ本国を突くべきだと主張したとき、ファビウスはこれに強く反対した。彼は紀元前203年に世を去り、翌年のザマでスキピオがハンニバルを破るのを見ることはなかった(ザマの戦い)。持久の戦略が時間を稼ぎ、攻めの戦略が戦争を終わらせた、と見ることもできる。
ローマの詩人エンニウスは、ファビウスについて、一人の男が、ぐずぐずすることで、我々の国を立て直した、と歌った。あざけりの名だったクンクタトルは、誇りの名に変わった。
ファビウスの名は、二千年後のイギリスで別の意味をまとう。1884年、ロンドンで社会主義の団体フェビアン協会が生まれた。革命ではなく、選挙と議会と地道な調査によって、少しずつ社会を変えていく。劇作家バーナード・ショーやシドニーとベアトリスのウェッブ夫妻が加わり、のちに労働党の結成にも関わった。協会の初期の小冊子には、ファビウスのように辛抱強く時を待ち、時が来たら強く打て、という趣旨の言葉が掲げられた。もっとも、ファビウス自身は最後まで強く打つことはなかった、と皮肉る人もいる。
正面からの決戦を避け、時間と土地の広さを味方につけて強い敵をすり減らす戦い方は、いまも「ファビウス戦略」と呼ばれる。アメリカ独立戦争でワシントンが優勢なイギリス軍に対して取った戦い方や、ナポレオンのロシア遠征でロシア軍が退きながら敵を奥深く引き込んだ戦い方は、しばしばその例に挙げられる。敵を知り、戦わずに勝つことを説いた『孫子』の兵法とは時代も土地も違うが、通じるところがある。