できごと

ヌマンティア陥落

Siege of Numantia
BC133年
重要度 3
北極圏の海獣狩猟民サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民スキタイパルティアアラブ系の人びとプトレマイオス朝サーミローマガリア諸部族小国群ノルマン人メロエケルト系の人びとヌミディアPlain-Pottery cultureセレウコス朝シュファクスの王国(マサエシュリ)Brushed Pottery cultureマウレタニアBell-shaped burials cultureMaanナバテア王国Milograd cultureEastern Masurian cultureポントス王国ボスポロス王国ブレンミュエスガラの王国(マッシュリ)Pomeranian cultureBC133年ヌマンティア
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC133年の版図を描いています(30勢力)。

概要

8か月の包囲の末に陥落し、ヒスパニアの組織的抵抗が終わった。

場所

ヌマンティア
41.81°N -2.44°E · スペイン・ソリア県

関わった人(1)

小スキピオBC185年(BC184年説あり)–BC129年 · ローマ側 · 総指揮

本文

イベリア半島の中央部、いまのスペイン北部のソリアの近く。ドゥエロ川と支流が合わさるところに、平らな頂きを持つ丘がある。そこにケルト系の人々とイベリア系の人々が混じり合ったケルティベリア人の町、ヌマンティアがあった。人口は数千人ほどの、城壁に囲まれた町である。

ローマがイベリア半島に足場を得たのは、第二次ポエニ戦争でカルタゴの勢力を半島から追い出したときだった。紀元前197年、ローマは半島に二つの属州を置いた。だが内陸の部族はローマの支配を受け入れず、重い税と、約束を破る総督たちに反発して、反乱が繰り返された。西のルシタニア人はウィリアトゥスに率いられて10年近く戦い、中央のケルティベリア人も何度も立ち上がった。

ヌマンティアの陥落を描いた絵画(アレホ・ベラ画、1881年)
ヌマンティアの陥落を描いた絵画(アレホ・ベラ画、1881年)Wikimedia Commons Alejo Vera · Public domain

紀元前153年、ローマの執政官ノビリオルはヌマンティアを攻めたが、連れてきた象が石に当たって暴れ出し、自軍を踏み荒らして大敗した。紀元前143年から再び戦いが始まり、ヌマンティアは10年にわたってローマ軍を退け続けた。ローマの将軍たちは次々に敗れ、紀元前137年には執政官マンキヌスの軍2万が包囲されて、全滅を免れる代わりに講和を結んだ。この講和をまとめたのは、若い財務官のティベリウス・グラックスだった。ところが元老院は講和を屈辱として破棄し、責任を取らせるため、マンキヌスを裸で縛ってヌマンティアの前に置き去りにした。ヌマンティア人は受け取らなかった。この一件は、のちに改革に乗り出すティベリウスの心に深い傷を残したとされる(ティベリウス・グラックス)。

ローマの面目は地に落ちていた。紀元前134年、ローマはカルタゴを滅ぼした将軍小スキピオを、特例で再び執政官に選び、ヌマンティアへ送った。スキピオが着いてみると、軍は士気を失っていた。陣営には商人や占い師、娼婦がたむろし、兵は贅沢と怠惰に慣れていた。スキピオはまず彼らを追い出し、兵に寝床を捨てさせ、毎日行軍させ、壕を掘っては埋めさせて鍛え直した。ヌミディアからは王子ユグルタが騎兵と象を率いて加わり、のちにローマの将軍となるマリウスもこの陣にいた。歴史家ポリュビオスも、友人スキピオに同行していたと考えられている。

ヤコブス・ボイス『破壊後カルタゴの前に立つスキピオ・アエミリアヌスとポリュビオス』(1797年頃)アムステルダム博物館所蔵
小スキピオWikimedia Commons Jacobus Buys (1724-1801) · Public domain

スキピオの作戦ははっきりしていた。戦わない。ヌマンティアの人々は野戦では強い。だから町を丸ごと囲み、飢えで落とす。ローマ軍はヌマンティアの丘を取り巻くように7つの陣営を置き、それらを周囲9キロほどの石と土の壁で結んだ。壁には一定の間隔で塔を立て、合図の旗と火で知らせ合う仕組みを作った。町を流れるドゥエロ川も、刃や槍の穂を付けた丸太を水中に渡して、舟や泳ぎ手が通れないようにした。ローマ側の兵力は同盟軍を含めて6万ほど、守る側は数千人だったと伝えられる。

ヌマンティアの人々は和を求めたが、スキピオは無条件の降伏しか認めなかった。レトゲネスという勇士が仲間と夜に壁を越え、近くの町々に助けを求めて回った。若者たちが応じようとしたルティアの町に、スキピオはすぐさま兵を向け、若者400人の右手を切り落とさせた。周りの町々は震え上がり、もう誰も助けに来なかった。

ケルティベリア人の居住地域と諸部族の推定位置を示す地図
ケルティベリア人の居住地域と諸部族の推定位置を示す地図Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Papix assumed (based on copyright claims). · Public domain

包囲はおよそ8か月続いた。食糧が尽き、町の人々は革を煮て食べ、ついには死者の肉を食べた、とアッピアノスは書いている。紀元前133年の夏、ヌマンティアは降伏した。多くの人々が、生きてローマの手に渡るよりはと、自ら命を絶ったと伝えられる。生き残った者のうち50人がスキピオの凱旋式のために選ばれ、残りは奴隷として売られた。町は破壊された。

スキピオは「ヌマンティヌス」の名を加えられた。13年前の紀元前146年、彼はカルタゴを滅ぼしている(カルタゴ滅亡)。同じ人物が、地中海の南と西で二つの町を消したのである。ヌマンティアの陥落で、イベリア半島中央部の組織立った抵抗は終わった。それでも半島全体がローマに服するのは、さらに100年あまり後、アウグストゥスが北西の山地の部族を平定したときのことになる。

カルタゴ滅亡に関わる図版:Catapulta by Edward Poynter
カルタゴ滅亡Wikimedia Commons Edward Poynter · Public domain

ヌマンティアが落ちた紀元前133年、ローマでは護民官ティベリウス・グラックスが土地改革を掲げ、元老院議員たちに殴り殺された(ティベリウス・グラックスの農地改革と暗殺)。征服によって広がった属州と奴隷と富が、ローマの社会そのものを揺るがし始めていた。

20世紀の初め、ドイツの考古学者シュルテンが丘の周りを発掘し、スキピオの陣営と壁の跡を見つけた。古代の文献に書かれた包囲がほぼそのとおりだったことが分かった。スペインでは、ヌマンティアは外からの侵略に屈しなかった人々の象徴となり、セルバンテスは包囲を題材に劇『ヌマンシアの包囲』を書いた。「ヌマンティアの抵抗」という言葉は、いまも最後まで降らない戦いを指して使われている。

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