トレビアの戦い

概要
イタリア侵入後の最初の大勝。渡河で冷えたローマ軍を伏兵で包囲した。
場所
44.99°N 9.66°E · イタリア・ピアチェンツァ近郊
関わった人(1)
ハンニバル・バルカBC247年–BC183年(一説にBC181年) · カルタゴ側 · 総指揮本文
紀元前218年の秋、ハンニバル・バルカはハンニバルのアルプス越えを果たして北イタリアに下りた。スペインを出たときの兵の多くを途中で失い、平地にたどり着いたのは歩兵2万と騎兵6000ほどだったとポリュビオスは書いている。疲れ切った軍だったが、騎兵の質ではローマを上回っていた。
北イタリアのポー川流域には、ボイイ族やインスブレス族といったガリア人の部族が住んでいた。ローマはこの年、彼らの土地にプラケンティアとクレモナという植民市を置いたばかりで、反発したボイイ族が入植者を襲う騒ぎが起きていた。ハンニバルは、こうしたガリア人を味方に引き込むことを当てにしてアルプスを越えたのである。

ローマはこの侵入をすぐには信じられなかった。執政官のひとり、大スキピオの父プブリウス・コルネリウス・スキピオは、ハンニバルをスペインで迎え撃つつもりで出発していたが、引き返して北イタリアで待ち構えた。ポー川の支流ティキヌス川のほとりで両軍の騎兵がぶつかり、ローマ側は敗れてスキピオも重傷を負った。この時、まだ十代だった息子が父を救い出したという話が伝わっている。のちの大スキピオである。
この敗戦の後、ローマ軍の陣営にいたガリア人の兵2000人ほどが、夜中にローマ兵を殺してハンニバルの陣へ走ったとポリュビオスは伝えている。ハンニバルは彼らに褒美を与えて故郷へ帰し、部族の仲間を味方に誘わせた。

もうひとりの執政官センプロニウス・ロングスは、シチリアからアフリカへ渡る準備をしていたが、呼び戻されて北イタリアでスキピオの軍と合流した。傷を負ったスキピオは、冬のあいだは戦いを避け、ガリア人の様子を見るべきだと説いた。だがセンプロニウスは、任期の切れる前に自分の手で勝ちたいと考えていた。小競り合いで勝ったことも、彼の自信を強めていた。ハンニバルは、そうした焦りを見抜いていたとされる。
戦場は、ポー川に注ぐトレビア川の西岸の平野だった。ハンニバルは前夜のうちに、弟マゴに歩兵1000と騎兵1000をつけ、川岸の茂みに覆われた窪地に潜ませた。平らに見える地形にこそ兵を隠せる、と考えたのだとポリュビオスは伝える。

12月の、冬至に近いころの朝だった。雪がちらついていた。ヌミディア人の軽騎兵が川を渡ってローマの陣地に矢を射かけ、すぐに退いた。センプロニウスは全軍に追撃を命じた。ローマ兵は朝食を摂る間もなく陣を出て、胸まで水につかって増水した川を渡った。一方のカルタゴ兵は、焚き火の前で食事をとり、体に油を塗って寒さに備えていた。
渡り終えたローマ軍は、ハンニバルの本隊と正面からぶつかった。数のうえでは歩兵はローマが勝っていた。

ポリュビオスによれば、ローマ軍はローマ市民の兵1万6千と同盟市の兵2万、騎兵4000で、2人の執政官の軍を合わせた大軍だった。だが両翼でカルタゴの騎兵と象がローマの騎兵を追い散らし、歩兵の側面を突いた。そこへ、背後の窪地からマゴの伏兵が現れた。前と横と後ろから攻められ、ローマ軍の両翼は崩れた。
中央の約1万人は、カルタゴ軍の戦列を突き破って進み、そのままプラケンティア(いまのピアチェンツァ)の町へ逃げ込んだ。残りの多くは川へ追い落とされて死ぬか捕らえられた。ローマ側の損害は2万から3万に上ったとも推定されるが、正確な数は分からない。カルタゴ側の損失は主にガリア人の兵だったとされる。

戦場が川のどちら側だったのか、ローマ兵がどこで川を渡ったのかについては、古代の記述が細部で食い違っており、研究者の間でも説が分かれている。ただし、アルプスを越えてきた象の多くは、その後の寒さで死んだ。
センプロニウスはローマに、悪天候で勝ちを逃したと報告したと伝えられる。しかし事実はすぐに知れ渡った。この勝利で、去就を決めかねていた北イタリアのガリア人の部族が次々にハンニバルの側についた。アルプスで減った兵力は、彼らによって補われた。

イタリアに入って最初の会戦で、ハンニバルは地形を読み、敵の指揮官の性格を読み、天候まで味方につけた。待ち伏せと挟み撃ちという手は、翌年のトラシメヌス湖の戦いで、さらに大きな規模で繰り返される。