レグルス
概要
執政官としてアフリカに上陸し、勝って、傲慢な講和を求めて、負けて捕虜になった。講和の使者としてローマに帰り、元老院に講和を拒めと言い、誓い通りカルタゴへ戻って拷問で死んだ、とローマは伝えた。史実かは怪しいが、ローマ人はこれを信じて育った。
所属
ローマ関わったできごと(1)
レグルスのアフリカ遠征BC256年 · 執政官本文
マルクス・アティリウス・レグルスの生まれた年は分からない。アティリウス家は平民の出だが、すでに執政官を出していた家柄で、彼は紀元前267年に初めて執政官に選ばれ、イタリア半島のかかとにあたる地方のサレンティニ人を降して凱旋式を挙げた。ローマがイタリア半島の統一を仕上げつつあった時代である。
紀元前264年、シチリアをめぐってローマと北アフリカの海の大国カルタゴが衝突し、第一次ポエニ戦争が始まった。陸の国だったローマは急ごしらえの艦隊を作り、ミュラエの海戦で初めてカルタゴの海軍を破った。紀元前256年、レグルスはもう一人の執政官マンリウスとともに大艦隊を率い、シチリア南岸沖のエクノモス岬の海戦でカルタゴ艦隊に大勝した。古代で最大級の海戦の一つとされる。ローマ軍はそのまま海を渡り、カルタゴ本国のある北アフリカに上陸した(レグルスのアフリカ遠征)。

アフリカでの戦いは、はじめ順調だった。マンリウスが艦隊の大部分とともにローマへ引き揚げたあとも、レグルスは残った軍で各地を荒らし、カルタゴ軍を破り、都の近くまで迫った。追い詰められたカルタゴは講和を申し出た。だがレグルスが突きつけた条件は、シチリアとサルディニアを明け渡し、艦隊のほとんどを差し出し、事実上ローマに従属せよという、あまりにも過酷なものだった。カルタゴは、これを受けるくらいなら戦うほうがましだと考えた。
カルタゴは、ギリシアの傭兵隊長、スパルタ出身のクサンティッポスを迎えた。彼はカルタゴ軍を鍛え直し、平地で騎兵と戦象を存分に使う戦い方を教えた。紀元前255年の春、チュニスの近くの平原で、ローマ軍は象の突進と騎兵の包囲に崩れ、壊滅した。生き残った者はわずかで、レグルスは数百人の兵とともに捕虜になった。生存者を救いに向かったローマの艦隊も、帰りにシチリア沖で嵐に遭い、大半が沈んだ。

確かな記録でたどれるのは、ここまでである。同じ時代に近い歴史家ポリュビオスは、レグルスの捕虜としての運命について何も書いていない。ポリュビオスはこの遠征を、運命が人を戒めるための見本として語った。少し前まで敵に情けをかけなかった男が、いまは敵に命乞いをする立場になった。勝っているときにこそ、運のうつろいやすさを忘れてはならない、と。
ところが、のちのローマでは、レグルスの物語は別の形で語り継がれた。捕虜になって数年後の紀元前250年ごろ、シチリアで敗れたカルタゴは、捕虜の交換か講和を求めて、レグルスをローマへ使者として送った。交渉がまとまらなければカルタゴへ戻る、と誓わせたうえでである。ローマに着いたレグルスは、元老院で、講和も捕虜の交換も受けてはならないと説いた。敵の捕虜には若く有能な指揮官が多いが、自分はもう老いて役に立たない、交換はローマの損になる、と。そして、引き止める家族と友人を振り切り、誓いを守ってカルタゴへ戻った。カルタゴ人は怒り、彼を残酷な拷問にかけて殺した。まぶたを切り取られて真昼の太陽を見つめさせられた、内側に釘を打った樽に入れられて眠れないまま死んだ、と伝えられる。
詩人ホラティウスは、この場面を歌に残している。市民の権利を失った捕虜の身だからと妻の口づけさえ避け、地面に目を落としたまま、引き止める人々をかき分けて去っていく。まるで依頼人の面倒な訴訟を片づけ、郊外の別荘へ休みに向かうかのように。キケロは『義務について』の中で、得になることと名誉なことがぶつかるとき、人は名誉を選ぶべきだという例として、敵との誓いさえ守ったレグルスを挙げた。ローマの子どもたちは、この物語を聞いて育った。
だが、この物語には早くから疑いが出されている。シチリアの歴史家ディオドロスの断片には、まったく別の話が残っている。レグルスはカルタゴで捕虜のまま、世話を怠られて死んだ。ローマにいたカルタゴの捕虜二人を預かっていたレグルスの妻は、夫の死を知ると、息子たちとともに捕虜を責めさいなんだ。一人は死に、もう一人は5日間、死体と同じ部屋に閉じ込められた。護民官がこれを知って止めさせた、という話である。現代の研究者の中には、レグルスの妻の残酷な仕返しが先にあり、カルタゴでの拷問の話は、それを正当化するために後から作られたのではないかと考える人もいる。
それでも、ローマ人はレグルスの物語を手放さなかった。アフリカで戦っていたとき、彼は自分の小さな畑を世話する者が死んだので、家族が飢えないよう帰国させてほしいと元老院に願い出た、という話も伝わっている。質素で、誠実で、国のために自分を犠牲にする。レグルスは、ローマ人が自分たちの祖先はそうあったと信じたい姿そのものだった。
第一次ポエニ戦争は、その後も十数年続き、紀元前241年、ローマがアエガテス諸島の海戦で勝って終わった。レグルスの名は、敗れた将軍としてではなく、誓いを守った男として、ローマの歴史の中に残った。史実かどうかよりも、人々がそれを信じて育ったこと自体が、ローマという国の性格を物語っている。