できごと

ピュドナの戦い

Battle of Pydna
BC168年6月22日
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC168年6月22日の版図を描いています(39勢力)。

概要

ローマがマケドニア王国を滅ぼした。ファランクスがレギオンに敗れ、ヘレニズム世界はローマの手に落ちていく。

場所

ピュドナ
40.38°N 22.62°E · ギリシア・ピエリア

関わった人(1)

ペルセウスBC212年頃–BC166年 · マケドニア側 · 総指揮

本文

マケドニアは、キュノスケファライの戦いで一度ローマに敗れていた。紀元前197年のことである。王フィリッポス5世は領土を削られ、賠償金を払ったが、王国そのものは残った。その子ペルセウスが即位すると、彼はギリシア諸都市との関係を深め、軍備を立て直した。ローマはこれを脅威と見て、紀元前171年に戦争を始めた。第三次マケドニア戦争である。

最初の3年、ローマ軍はうまく戦えなかった。指揮官が毎年替わり、規律も緩んでいた。紀元前168年、執政官に選ばれたのが、60歳前後の老練な将軍ルキウス・アエミリウス・パウルスである。彼は軍の規律を締め直し、ペルセウスが陣を張るオリュンポス山麓の守りを迂回する部隊を送って、マケドニア軍をピュドナの近くの平地へ退かせた。

ペルセウスがパウルスに降伏する場面(ペイロン画、1802年)
ペルセウスがパウルスに降伏する場面(ペイロン画、1802年)Wikimedia Commons Jean-François Pierre Peyron · Public domain

戦いの前夜、月食があった。ローマの将校スルピキウス・ガルスがそれを前もって兵に説明していたので、ローマ兵は動じなかったとリウィウスは伝える。一方のマケドニア兵は不吉な兆しと受け止めて動揺したという。この月食は天文学の計算から紀元前168年6月21日の夜と特定でき、戦いの日付を確かめる手がかりにもなっている。

6月22日の午後、戦いは偶然から始まったとプルタルコスは書く。川辺で逃げた馬を追った兵たちの小競り合いが広がり、両軍が戦列を組んで激突した。

メドゥーサの首を切り落としたペルセウス。アントニオ・カノーヴァ作『メドゥーサの頭を持つペルセウス』(1800年頃) バチカン美術館所蔵。
ペルセウスWikimedia Commons Christopher Michel · CC BY 2.0

マケドニアの主力は、ファランクスと呼ばれる重装歩兵の密集隊形である。兵は長さ5メートルを超える長槍(サリッサ)を両手で構え、前の数列の槍先が重なり合って、正面に槍の壁を作る。パウルスは後年、あれほど恐ろしい光景は見たことがないと語ったと伝えられる。実際、正面からぶつかったローマの軍団兵は押し返された。

崩れたのは地形による。ファランクスは平らな土地でこそ力を出す。追撃しながら起伏のある土地を進むうちに、戦列の各所が波打ち、隙間ができた。パウルスはそれを見逃さず、兵を小隊(マニプルス)ごとに分けて、その隙間へ送り込んだ。懐に入られると、長槍は向きを変えられない。短い剣と大きな盾を持つローマ兵の前に、マケドニア兵は次々に倒れた。

戦いは一時間ほどで決着したと史料は書く。マケドニア側の死者は2万、捕虜は1万を超えたという。ローマ側の損害はごくわずかと伝わるが、これは誇張とみる研究者が多い。パウルスの17歳の息子で、後にコリントス破壊と同じ年にカルタゴを滅ぼすことになる小スキピオも、この戦いに加わっていた。

コリントス破壊に関わる図版:Tony robert-fleury, l'ultimo giorno di corinto, ante 1870
コリントス破壊Wikimedia Commons Sailko · CC BY 3.0

ペルセウスは逃れてサモトラケ島の聖域に身を寄せたが、やがて捕らえられた。翌年、パウルスのローマでの凱旋式で、王は子どもたちとともに見せ物として引き回され、数年後にイタリアの幽閉先で死んだ。パウルス自身は、凱旋式の前後に二人の幼い息子を病で失っている。勝者にも悲運が訪れるという話として、プルタルコスはこれを印象深く描いた。

マケドニア王家から奪った財宝はあまりに多く、この後、ローマ市民は直接税を納めなくてよくなったと伝えられる。パウルス自身は財宝に手をつけず、息子たちのために王家の蔵書だけを持ち帰ったという。ギリシアの書物と学者がローマへ流れ込み、ローマの上流階級がギリシア文化に染まっていく流れは、ここから一段と強まった。

マケドニア王国は四つの共和国に分けられ、王政は廃止された。マケドニアに味方したエペイロスでは70の町が略奪され、15万人が奴隷として売られたと伝えられる。ギリシアのアカイア同盟からは千人が人質としてローマへ送られた。その中に、後に『歴史』を書いてローマ興隆の理由を論じたポリュビオスがいた。

ポリュビオスは『歴史』の中で、ファランクスとローマの軍団を詳しく比べている。ファランクスは条件さえ揃えば正面から抗えないが、その条件とは平らで障害物の無い広い土地のことで、そんな場所はめったに無い。一方のローマ兵は、一人ひとりがどんな地形でも、どの向きにも戦える。ピュドナの結果は、この分析を裏づける実例として引かれることになった。

アレクサンドロスの死後に生まれた三つの大きな後継王国、すなわちマケドニアのアンティゴノス朝、セレウコス朝、プトレマイオス朝のうち、最初に消えたのがマケドニアだった。紀元前148年には属州となり、ヘレニズム世界は一つずつローマの手に落ちていく。

属州化のきっかけは、ペルセウスの息子を名乗るアンドリスコスという男の反乱だった。王を失ったマケドニアの人々の中には、なお王家を慕う者が多く、偽の王子のもとに一時は大きな勢力が集まった。ローマはこれを鎮めると、分割統治をやめて直接治めることにした。

密集の力に頼る戦い方が、柔軟に分かれて動く戦い方に敗れた例として、ピュドナは後世の兵学でよく語られる。ただ、ファランクスが本当に時代遅れだったのか、ペルセウスの指揮や兵の質に問題があったのかについては、研究者の間でも見方が分かれている。

出典(2)

ティトゥス・リウィウス 『ローマ建国以来の歴史』第44巻 40–42
塩野七生 『ローマ人の物語』II ハンニバル戦記

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