カルタゴの降伏
概要
艦隊と属領を失い、ローマの許可なく戦争できない条件で講和。カルタゴは地中海の強国ではなくなった。
場所
36.85°N 10.32°E · チュニジア・チュニス県
本文
紀元前202年、北アフリカのザマの戦いで、大スキピオの率いるローマ軍がハンニバルの軍を破った。16年続いた第二次ポエニ戦争は、カルタゴの本拠地のすぐ近くで決着した。イタリアで連戦連勝したハンニバル自身が、カルタゴの元老たちに、講和を受け入れるほかないと説いたと伝えられる。
実は、講和の話はザマの戦いの前にも一度まとまりかけていた。紀元前203年、スキピオがアフリカに上陸してカルタゴの軍を破ると、カルタゴは休戦を求め、条件の交渉に入った。ところがその休戦の間に、嵐で流されたローマの補給船をカルタゴ側が奪い、抗議に来たローマの使節の船まで襲った。ハンニバルがイタリアから呼び戻されたこともあって、休戦は破れ、決戦となった。ザマの後の条件が前より厳しくなったのは、この経緯のためでもある。スキピオはこの勝利によって「アフリカヌス」の名で呼ばれるようになった。

ポリュビオスによれば、講和の条件はおおよそ次のようなものだった。カルタゴはアフリカの中での自分の領土と法を保つことを許される。ただし、軍艦は10隻を残してすべて引き渡し、戦象も差し出す。スペイン(ヒスパニア)など海外の領土はすべて放棄する。賠償金として銀1万タラントンを50年にわたって払う。人質として100人を差し出す。そして、アフリカの外ではいっさい戦争をしてはならず、アフリカの中でもローマの許可なしに戦争をしてはならない。
軍艦の引き渡しは、象徴的な場面を生んだ。カルタゴの港から引き出された500隻ほどの船が、沖で火を放たれて焼かれたとリウィウスは伝えている。かつて西地中海の海を支配した海の国は、海軍を持たない国になった。

カルタゴは地中海の強国の座から降りた。だがそれでも、交易の町としては力を失わなかった。北アフリカの肥えた土地を背景に、農業と商業で富を取り戻していった。紀元前196年には、ハンニバルが最高の役職に就いて、財政や役人の不正を正す改革を行っている。ハンニバルはのちにローマの圧力で国外へ逃れることになる(ハンニバルの死)。
講和の条件のうち、後になって最も効いたのは、ローマの許可なく戦争をしてはならないという一項だった。カルタゴの西隣には、第二次ポエニ戦争でローマの側について戦ったヌミディアの王マシニッサがいた。講和の条件には、マシニッサの父祖の土地を返すという取り決めも含まれていた。その「父祖の土地」がどこまでなのかがはっきりしないことを利用して、マシニッサはカルタゴの土地を少しずつ奪っていった。

カルタゴは自分の力で反撃することができない。そのたびにローマに訴えたが、ローマから送られてくる使節は、たいていマシニッサの側に立つか、裁定を先送りにした。ローマにとって、カルタゴが弱いままでいることは都合がよかった。
紀元前191年には、カルタゴが、残りの賠償金を一度に払いたいと申し出た。講和から10年あまりで、それだけの財力を取り戻していたのである。ローマはこの申し出を断った。賠償金を払い続けることは、カルタゴがローマに従っていることの証でもあったからだ。そしてローマの政治家の中には、カルタゴの急速な回復を、いずれ再び脅威になる兆しと見る者もいた。

紀元前2世紀の半ば、ローマの元老院議員の大カトーは、演説の終わりに必ず「カルタゴは滅ぼされねばならない」と付け加えたと伝えられる。カルタゴの市場に並ぶ見事なイチジクを元老院で示して、これほど近くに豊かな敵がいると説いたという逸話もある。
紀元前150年、マシニッサの侵略に耐えかねたカルタゴは、ついに兵を出して戦った。そして敗れた。ローマはこれを、許可なく戦争をしてはならないという講和の条件への違反とみなし、翌年、カルタゴに宣戦した。第三次ポエニ戦争の始まりである。紀元前146年、カルタゴの町は落とされ、徹底的に破壊された(カルタゴ滅亡)。紀元前201年の講和は、カルタゴを生かしながら、その手足を縛ることで、半世紀後の滅亡への道を敷いた取り決めでもあった。