ペルセウス
概要
マケドニア最後の王。ピュドナでローマに敗れ、王国は解体された。
所属
マケドニア関わったできごと(1)
ピュドナの戦いBC168年6月22日 · マケドニア側 · 総指揮本文
アレクサンドロスの故国の、最後の王になる。アレクサンドロス3世の死から150年近くたち、マケドニアはアンティゴノス朝のもとで、ギリシア北部の一王国に戻っていた。
紀元前212年頃、フィリッポス5世の長男として生まれた。父はキュノスケファライの戦いでローマに敗れ、以後はローマの顔色をうかがいながら国を立て直していた。弟のデメトリオスは人質としてローマで育ち、元老院に気に入られていた。父フィリッポスは第二次ポエニ戦争のさなか、紀元前215年にハンニバルと同盟を結び、これがローマとの長い因縁の始まりになった。ローマに敗れてからは、領土を削られ、軍の規模も縛られた。王子として育つペルセウスは、その屈辱の中で大人になった。

兄弟の対立は深まり、ペルセウスは弟がローマと組んで王位を奪おうとしていると父に訴えた。紀元前180年、父はデメトリオスを殺させている。訴えには偽の手紙が使われたと古代の史家は書くが、どこまで本当かは分からない。
紀元前179年に父が死に、王位を継いだ。最初はローマとの条約を更新し、事を荒立てなかった。セレウコス朝の王女ラオディケを妃に迎え、妹をビテュニア王に嫁がせ、ギリシア諸都市には借財の帳消しや亡命者の帰還を呼びかけた。貧しい層を中心に、ギリシアでの人気は高まった。

それを最も恐れたのが、ペルガモン王エウメネス2世だった。紀元前172年、エウメネスはローマへ行ってペルセウスを訴えた。帰り道のデルフォイで落石に襲われて重傷を負い、ローマではペルセウスの差し金とみなされた。ローマとの戦争は、こうした条約の解釈と周辺国からの訴えの積み重ねから始まった。ペルセウス自身は、開戦の後も何度か和平を探った形跡がある。
紀元前171年に始まった第三次マケドニア戦争で、最初の年はペルセウスが騎兵戦で勝っている。ローマ軍は3年にわたって攻めあぐねた。だが彼は、援軍として雇ったバスタルナエ人やイリュリア王への支払いを渋り、味方を失ったとポリュビオスやプルタルコスは責める。

紀元前168年、ローマはルキウス・アエミリウス・パウルスを送った。6月、ピュドナの戦いで、マケドニアの密集歩兵は起伏のある地面で隊列を乱し、その隙間にローマ兵が入り込んで崩れた。前夜には月食があったと伝えられる。アエミリウスは後年、あれほど恐ろしいものを見たことはないと、迫ってくる長槍の列を振り返ったとプルタルコスは書く。戦いは1時間ほどで決し、マケドニア側は2万人が死んだと伝えられる。ペルセウスは戦場から逃げ、財宝を持ってサモトラケ島の聖域に逃げ込んだが、やがて投降した。
翌年、アエミリウスの凱旋式で、ペルセウスは子どもたちとともに引き回された。見ていた群衆が、幼い王子たちの姿に同情の声を上げたとプルタルコスは書く。凱旋に加えないでほしいと頼んだペルセウスに、アエミリウスは「それは前からお前の手の中にある」と答えたという。自ら死を選べ、という意味だった。
イタリア中部のアルバ・フケンスで軟禁され、紀元前166年頃に死んだ。番兵に眠らせてもらえずに死んだという話が伝わるが、確かめようがない。50歳に届いていない。息子のアレクサンドロスは金属細工とラテン語を身につけ、ローマで役人の書記になったとプルタルコスは書いている。
マケドニア王国は四つの共和国に分けられた。王家の財宝はローマに運ばれ、その額の大きさから、ローマ市民はこれ以後、直接税を納めずに済むようになったと伝えられる。ペルセウスに味方したエペイロスでは、70の町が略奪され、15万人が奴隷として売られたと伝えられる。ギリシアからは、ローマに疑われた者たちが人質として連れ去られた。アカイア同盟から送られた千人の中に、のちに『歴史』を書くポリュビオスがいた。

ペルセウスの息子を名乗ったアンドリスコスの反乱を経て、紀元前146年前後にマケドニアは属州になった。同じ年にコリントス破壊がある。ペルセウスの敗北は、地中海東部の王国がローマの前に次々と消えていく流れの、最初の大きな一歩だった。