人物

ハスドルバル・バルカ

Hasdrubal Barca
BC245年頃 – BC207年(享年38・推定)
カルタゴ重要度 3

概要

ハンニバルの弟。兄がイタリアへ行ったあと10年スペインを守り、スキピオに敗れ、兄と同じ道でアルプスを越えた。メタウルスで負け、敵陣に突っ込んで死んだ。首はハンニバルの陣に投げ込まれた。

所属

カルタゴ

関わったできごと(1)

メタウルス川の戦いBC207年 · 戦死

本文

ハスドルバルは、カルタゴの将軍ハミルカル・バルカの息子として、紀元前245年ごろに生まれた。兄がハンニバル・バルカ、弟がマゴである。バルカは「雷光」を意味する一家の呼び名で、父ハミルカルは、ローマとの最初の戦いでシチリアを最後まで守り抜いた将軍だった。戦争に敗れたカルタゴは、シチリアを失い、重い賠償金を負った。紀元前237年、ハミルカルは、新しい富と兵の供給地を求めて、まだ幼い息子たちを連れてイベリア半島に渡った。兄弟は、スペインの銀山と、そこで集めた兵の中で育った。

父が戦いで亡くなり、義兄の将軍が暗殺されると、紀元前221年、20代半ばの兄ハンニバルがスペインのカルタゴ軍を受け継いだ。紀元前218年、ハンニバルは大軍を率いてピレネーとアルプスを越え、イタリアに攻め込んだ(ハンニバルのアルプス越え)。第二次ポエニ戦争の始まりである。このとき兄は、弟ハスドルバルに、歩兵と騎兵あわせて1万5千ほどと象を預け、スペインを守るよう命じた。イタリアで戦い続けるには、スペインからの兵と金が欠かせない。ハスドルバルの務めは、その後ろ盾を守ることだった。

ローマもそれを分かっていた。同じ年、執政官プブリウス・スキピオの兄グナエウス・スキピオがスペインに上陸し、やがてプブリウス自身も加わった。兄がイタリアでトラシメヌス湖、カンナエと大勝利を重ねている間(カンナエの戦い)、弟はスペインで苦戦を続けた。紀元前217年には、エブロ川の河口でカルタゴの艦隊が敗れた。カンナエのあと、カルタゴの本国は、ハスドルバルに兵を率いてイタリアの兄のもとへ向かうよう命じた。だが紀元前215年、エブロ川のほとりのデルトサの近くでスキピオ兄弟に敗れ、その道は閉ざされた。歴史家リウィウスは、もしこのとき、カンナエのあとのイタリアにもう一つのカルタゴ軍が入っていたら、ローマは持ちこたえられなかったかもしれない、という見方を伝えている。

カンナエの戦いに関わる図版:The Death of Paulus Aemilius at the Battle of Cannae (Yale University Art Gallery scan)
カンナエの戦いWikimedia Commons John Trumbull · Public domain

それでも、ハスドルバルは粘り強かった。紀元前211年、彼は弟マゴやもう一人の将軍と力を合わせ、ローマ側についていたケルトイベリアの傭兵たちを金で引き抜いて離れさせ、スペイン南部でスキピオ兄弟の軍を各個に破った。プブリウスとグナエウスは、ひと月ほどのうちに相次いで戦死した。ローマはエブロ川の南の大半を失い、スペインは一時カルタゴのものに戻った。

だが翌年、戦死したプブリウスの同じ名の息子、のちの大スキピオ(大スキピオ)が、20代半ばでスペインのローマ軍を任されて上陸した。紀元前209年、若いスキピオはカルタゴのスペイン支配の拠点カルタゴ・ノウァを奇襲で落とし、そこに蓄えられていた金や武器、人質を手に入れた。紀元前208年、ハスドルバルはバエクラでスキピオと戦って敗れた。だが彼は、軍の大部分と金と象を保ったまま戦場を離れると、スペインを守ることをあきらめ、北へ向かった。兄が待つイタリアへ、自分の軍を届けるためである。スキピオは、それを止められなかった。

ハスドルバルは西のほうからピレネーを越え、ガリアで冬を越しながら、ガリア人の兵を雇い入れた。紀元前207年の春、彼はアルプスを越えた。兄が11年前に大きな犠牲を払って切り開いた道は、今度ははるかに早く、たやすく越えられた。山々の部族も、カルタゴの軍を前ほど恐れず、妨げもしなかった。ローマは、兄弟の二つの軍がイタリアで一つになることを何より恐れた。

ポー川の流域に下りたハスドルバルは、ローマの植民市プラケンティアを囲んだが、落とせずに時を費やした。そして南のハンニバルに宛てて、ウンブリアで会おう、と伝える手紙を、騎兵の使者に託して送った。使者たちは、長い道のりの途中でローマ兵に捕らえられた。手紙を読んだ執政官ガイウス・クラウディウス・ネロは、南でハンニバルと向き合っていたが、精鋭の兵を選んでひそかに陣を抜け出し、昼夜兼行で北へ向かい、北の守りにあたっていたもう一人の執政官リウィウス・サリナトルの陣に夜のうちに入った。ハンニバルは、それに気づかなかった。

ハスドルバルは、ローマの陣の合図のラッパが二度鳴るのを聞き、執政官が二人そろっていると悟ったという。彼は夜のうちに退こうとしたが、道案内に逃げられ、メタウルス川のほとりで道に迷っているところを追いつかれた(メタウルス川の戦い)。カルタゴの軍は崩れた。リウィウスによれば、負けが決まると、ハスドルバルは、ハミルカルの子、ハンニバルの弟にふさわしく、馬を駆ってローマの隊列のただ中に突っ込み、戦いながら死んだ。38歳ほどだった。

ネロは、ハスドルバルの首を持って南の陣に戻り、それをハンニバルの陣の前に投げ込ませた。捕らえたカルタゴ兵も、兄の陣の前に引き出して見せた。弟の首を見たハンニバルは、カルタゴの運命を知った、と言ったとリウィウスは書いている。ハンニバルはそれから、南イタリアの奥に退き、二度と大きな攻勢に出ることはなかった。

スペインに残ったカルタゴの軍は、紀元前206年、イリパでスキピオに敗れ(イリパの戦い)、カルタゴはイベリア半島を失った。弟マゴは紀元前205年に北イタリアに上陸してなお戦ったが、深手を負い、本国に呼び戻される船の上で亡くなった。ハンニバルは、紀元前202年、アフリカのザマで、スキピオに敗れた(ザマの戦い)。父ハミルカルがローマと戦わせるために育てた三人の息子は、イタリアで戦い、イタリアの外で死んだ。

兄の陰に隠れがちだが、ハスドルバルは、10年にわたって劣勢のスペインを支え、ローマの将軍二人を討ち、敗れてなお軍を保ってアルプスを越えた、粘り強い将軍だった。ギリシア人の歴史家ポリュビオスは、メタウルスでの彼の戦いぶりと最期を、敗れた将軍としての模範だとたたえている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC245年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →