人物

ファビウス・マクシムス

Quintus Fabius Maximus Verrucosus
BC280年頃 – BC203年(享年77・推定)
ローマ重要度 4

概要

5度執政官、2度独裁官。ハンニバルと戦わないことで戦った。「クンクタトル」。あとで「一人の男がぐずぐずして国を救った」と詩に歌われた。スキピオのアフリカ遠征に最後まで反対し、ザマの前年に死んだ。

所属

ローマ

関わったできごと(1)

ファビウスの持久戦BC217年 · 独裁官

本文

クィントゥス・ファビウス・マクシムスは、紀元前280年頃、ローマで最も古く名高い家柄の一つ、ファビウス家に生まれた。祖父はサムニウム戦争で活躍した将軍である。プルタルコスの伝記によれば、唇にいぼがあったので「ウェッルコスス(いぼのある)」とあだ名され、子どもの頃は物静かでのんびりしていたため「オウィクラ(子羊)」とも呼ばれた。周りの人々は彼を鈍いと思っていたが、それは落ち着きと慎重さの表れだった、とプルタルコスは書く。

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Wikimedia Commons schurl50 ( User:schurl50 ) · Public domain

ファビウスは若い頃から順調に役職を重ね、紀元前233年に初めて執政官となって北イタリアのリグリア人を破り、凱旋式を挙げた。監察官を務め、2度目の執政官にも就いた。紀元前218年、カルタゴがスペインのサグントゥムを攻め落とすと、ローマは使節団をカルタゴに送った。リウィウスによれば、使節の長がトガの襞を握って、ここに戦争と平和を持ってきた、どちらでも選べ、と告げた。カルタゴの人々がそちらが選べと答えると、では戦争を、と言ってトガを広げたという。この使節をファビウスとする伝えもあるが、確かではない(第二次ポエニ戦争)。

その年、ハンニバル・バルカはアルプスを越えてイタリアに攻め込み、ローマ軍を次々に破った。紀元前217年、トラシメヌス湖の戦いで執政官フラミニウスの軍が全滅すると、ローマはファビウスを独裁官に選んだ。ファビウスは、ハンニバルとまともに戦わない作戦を選んだ。ハンニバルの軍のあとを、山地を伝って付かず離れず追いかけ、食糧を集めに散った兵を討ち、正面からの決戦は避け続ける。敵地にいるハンニバルは、時間がたつほど補給に苦しむ、という読みだった。

トラシメヌス湖の戦いに関わる図版:Sylvestre Ducar decapite Flaminius (Trasimene)
トラシメヌス湖の戦いWikimedia Commons Joseph-Noël Sylvestre · Public domain

この作戦は、ローマ人には臆病に見えた。ハンニバルがイタリアの畑を焼き払うのを、ローマ軍はただ見ているだけだったからである。人々は彼を「クンクタトル(ぐずぐずする人)」とあざけった。カンパニアでは、ファビウスが峠をふさいでハンニバルを閉じ込めたかに見えたが、ハンニバルは牛の角に松明を結びつけて夜の山に放ち、ローマ軍の目をそらして脱出した。騎兵長官ミヌキウスは独断で戦って勝ち、民会はミヌキウスにファビウスと同じ権限を与えた。だがミヌキウスはまもなくハンニバルの罠にはまり、ファビウスに救われて、その後は彼を父と呼んで従ったという。

翌紀元前216年、ローマは再び決戦に出て、カンナエの戦いで歴史的な大敗を喫した。ここに至って、ファビウスのやり方の正しさが認められた。その後のローマは、決戦を避け、ハンニバルに寝返った町を一つずつ取り戻していく持久戦に転じた。ファビウスはさらに3度執政官を務め、攻めに強いマルケルスと並んで、ファビウスはローマの盾、マルケルスはローマの剣と呼ばれた。

カンナエの戦いに関わる図版:The Death of Paulus Aemilius at the Battle of Cannae (Yale University Art Gallery scan)
カンナエの戦いWikimedia Commons John Trumbull · Public domain

紀元前209年、ファビウスはハンニバルに奪われていた南イタリアの港町タレントゥムを、内通者の手引きで取り戻した。町は略奪され、3万人の住民が奴隷として売られたと伝えられる。ハンニバルは、ローマにもハンニバルがいる、我々は取ったのと同じ方法でタレントゥムを失った、と言ったという。ファビウスは町から巨大なヘラクレス像を持ち帰り、カピトリウムに置いた。

晩年のファビウスは、若い大スキピオが、イタリアのハンニバルを放っておいてアフリカのカルタゴを直接攻めようと唱えたとき、最後まで反対した。ハンニバルがイタリアにいる間に本国を空けるのは危険だ、という慎重論だったが、プルタルコスは、若者の名声への嫉妬もあったのではないかと書いている。スキピオは反対を押し切ってアフリカに渡った。紀元前203年、ハンニバルはカルタゴに呼び戻されてイタリアを去り、同じ年、ファビウスは80歳近くで亡くなった。翌年、スキピオはザマの戦いでハンニバルを破った。葬儀の費用は、市民が一人一枚ずつ小さな硬貨を出し合ってまかなったとされる。

カルタゴの元老院の前に立つクィントゥス・ファビウス・マクシムス(エルミタージュ美術館所蔵画)
カルタゴの元老院の前に立つクィントゥス・ファビウス・マクシムス(エルミタージュ美術館所蔵画)Wikimedia Commons Giovanni Battista Tiepolo · Public domain

詩人エンニウスは、一人の男がぐずぐずすることで、我々の国を立て直した、と歌った。ファビウスの名は、正面から戦わずに敵を消耗させる戦略の代名詞になった。アメリカ独立戦争で、イギリス軍との決戦を避けて軍を保ち続けたジョージ・ワシントンは「アメリカのファビウス」と呼ばれ、ナポレオンの大軍を国の奥深くへ引き込んだロシアの将軍クトゥーゾフも、同じように比べられた(ナポレオンのロシア遠征)。19世紀末のイギリスでは、急な革命ではなく、時間をかけた改革で社会主義を目指す人々が、彼の名を取って「フェビアン協会」を名乗った。

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