アンティオコス3世(大王)
概要
18歳で継いだ帝国をインドまで回復して「大王」を名乗り、ハンニバルを客にし、ギリシアに渡ってローマとぶつかった。テルモピュライで負け、マグネシアで負け、賠償金のために神殿を略奪して殺された。
所属
セレウコス朝関わったできごと(1)
マグネシアの戦いBC190年 · 大王本文
アンティオコスは紀元前241年頃、セレウコス2世の次男として生まれた。王朝の祖セレウコス1世がアレクサンドロスの遺領から切り取った帝国は、地中海岸のシリアからイランの高原、さらに中央アジアまで広がっていたが、彼が生まれた頃にはすでに四方から崩れ始めていた。西ではペルガモンがアナトリアの大半を押さえ、東ではパルティアとバクトリアが独立していた。紀元前223年、兄セレウコス3世がアナトリアへの遠征中に暗殺され、18歳ほどのアンティオコスが王位を継いだ。

即位するとすぐ、東方のメディアの総督モロンが反乱を起こした。若い王はこれを紀元前220年に鎮め、続いて南へ向かった。南のシリアからパレスティナにかけての地方(コイレ・シリア)は、エジプトのプトレマイオス朝と何代にもわたって奪い合ってきた土地である。紀元前217年、ガザの南のラフィアで、アンティオコスはプトレマイオス4世の軍と戦った。両軍とも7万前後の兵を並べ、セレウコス側はインド象、エジプト側はアフリカの森林象を戦場に出した。象の戦いではアンティオコスが勝ったが、自ら率いた右翼が敵を追って深入りしすぎ、その間に中央が崩れた。彼は負け、南シリアは取れなかった。
彼の名を高めたのは、その後の東方遠征である。紀元前212年から205年まで、7年をかけて帝国の東半分を回った。アルメニアを従わせ、パルティアの王を臣下に戻し、バクトリアでは王エウテュデモスの都バクトラを2年にわたって包囲した。エウテュデモスは使者を送り、自分はセレウコス朝に背いた者ではなく、背いた者を倒して王になったのだと訴えた。さらに、北の遊牧民の脅威を前に、ギリシア人の国どうしが争えば共倒れになると説いた。アンティオコスはこれを受け入れ、エウテュデモスを王と認め、息子デメトリオスに娘を婚約させた。そのうえでヒンドゥークシュを越えてインドの王ソファガセノスと友好を結び、戦象を受け取って帰った。領土を力で取り戻したのではなく、臣従の形を整え直した遠征だったが、アレクサンドロスの道をなぞった王として、彼は「大王」と呼ばれるようになった。

紀元前200年、彼はついに南シリアを手に入れた。ヨルダン川の源近くのパニオンで、幼いプトレマイオス5世の軍を破ったのである。エルサレムもこのとき彼の支配に入った。ユダヤの歴史家ヨセフスは、王がエルサレムの神殿の特権を認め、税を免じた勅令を伝えている。
彼の目は次に西へ向いた。アナトリアの沿岸の諸都市を従え、紀元前196年にはヘレスポントスを渡ってトラキアのリュシマケイアを再建した。そこはかつて祖先セレウコス1世が勝ち取った土地だった。ここで彼は、第二次ポエニ戦争に勝って地中海の東に目を向け始めたローマの使節と会った。ギリシアの諸都市の自由を侵すなと迫るローマに対し、アンティオコスは、ローマがイタリアのことに口を出されたくないのと同じく、自分もアジアのことに口出しは無用だと答えた、とポリュビオスは伝える。
紀元前195年、カルタゴを追われたハンニバル・バルカが彼の宮廷に亡命してきた。ハンニバルはイタリアに軍を上陸させるよう説いたとされるが、王はこの客将を十分には信用しなかった。紀元前192年、アイトリア同盟の招きに応じてギリシアに渡ったが、集まった兵は少なかった。翌年、テルモピュライの隘路でローマ軍に側面を突かれて敗れ、アジアへ引き上げた。紀元前190年、小アジアのマグネシアで、ルキウス・スキピオと、その兄で軍に同行した大スキピオの率いるローマとペルガモンの軍と決戦した(マグネシアの戦い)。兵の数では勝っていたが、鎌をつけた戦車が敵の飛び道具に驚いて自軍の中へ逃げ戻り、隊列が崩れ、大敗した。

紀元前188年のアパメアの和約で、彼はタウロス山脈より西のアナトリアを手放し、戦象と艦隊の保有を制限され、1万5千タラントという巨額の賠償を12年で支払うことになった。息子の一人、のちのアンティオコス4世エピファネスが人質としてローマへ送られた。
賠償金の工面は、王の最後を決めた。紀元前187年、彼はイラン南西部のエリマイスで、ベール(バアル)の神殿の財宝を取ろうとした。夜、神殿を襲ったところで土地の人々が集まり、王とその兵は殺された。50代半ばだった。
彼の死後も、賠償と財政難は王朝を縛り続けた。息子アンティオコス4世がエルサレムの神殿に手をつけたことがマカバイの反乱の引き金になる。ポリュビオスは、アンティオコス3世について、若い頃は大きな事業を成し遂げて王の名にふさわしかったが、年を重ねてからは見劣りした、という趣旨の評価を残している。東方遠征でセレウコス朝を立て直した王と、ローマに敗れて衰退への道を開いた王は、同じ一人の人間だった。