フラミニヌス
概要
30歳の執政官がギリシア語を話し、マケドニア王を破り、イストミア祭で「ギリシアは自由」と告げさせた。ギリシア人は神のように祀り、20年後には彼の孫の世代に属州にされた。ハンニバルを追ってビテュニアまで行き、死なせた。
所属
ローマ関わったできごと(1)
キュノスケファライの戦いBC197年 · 総指揮本文
ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスは、紀元前229年ごろ、ローマの古い貴族の家に生まれた。少年から青年へと育つ時期は、ちょうどカルタゴのハンニバル・バルカがイタリアに攻め込んでいた時代(第二次ポエニ戦争)にあたる。20歳になる前に、彼は名将マルケルスの軍で将校として戦い、その後、ハンニバルとの争いの舞台になった南イタリアの港町タレントゥムで、軍の指揮と町の守りを任された。タレントゥムはギリシア人が築いた町で、フラミニヌスはこのころまでにギリシア語を流暢に話し、ギリシアの文化を深く愛するようになっていた。

紀元前198年、30歳ほどのフラミニヌスは、ローマの最高の官職である執政官に立候補した。ローマでは、財務官、按察官、法務官と、順に官職を経て執政官に上るのが習わしだったが、彼はその途中の段階を飛ばしていた。護民官たちは若すぎると反対したが、元老院はこれを民会の判断に委ね、フラミニヌスは選ばれた。彼に託されたのは、東の大国マケドニアの王フィリッポス5世との戦争だった。フィリッポスは、ハンニバルと手を結んでローマと敵対したことがあり、いまはギリシアの都市を次々に脅かしていた。
ギリシアに渡ったフラミニヌスは、まず、アオオス川の峡谷に陣を構えるフィリッポスの軍と向き合った。地元の羊飼いの案内で、兵の一隊を山道からひそかに敵の背後に回らせ、挟み撃ちにしてマケドニア軍を退かせた。だが彼は、剣だけで戦ったのではない。ギリシア語で語りかけ、ローマはギリシア人をマケドニアの支配から解き放つために来たのだと訴えて、ペロポネソス半島の都市の連合、アカイア同盟などを次々に味方に引き入れた。紀元前197年、テッサリアのキュノスケファライの丘陵で、両軍は決戦に臨んだ(キュノスケファライの戦い)。起伏の多い土地で、密集した長槍の隊列を組むマケドニアの重装歩兵は隊形を乱し、柔軟に動くローマの軍団に側面を突かれて崩れた。フィリッポスはギリシアから手を引くことを受け入れた。

紀元前196年の春、コリントスの近くで、ギリシアの各地から人々が集まるイストミアの競技祭が開かれた。競技場を埋めた群衆の前で、触れ役のラッパが鳴り響き、ローマの元老院と将軍ティトゥス・クィンクティウスの名において、マケドニアに支配されていたギリシアの人々は自由であり、守備の兵を置かれず、貢ぎ物を納めず、自分たちの法に従って暮らす、と告げられた。はじめ人々は耳を疑い、もう一度読み上げさせた。それから歓声が沸き起こった。プルタルコスは、その叫び声のあまりの大きさに、上空を飛んでいた鳥が気を失って競技場に落ちてきたと書いている。人々はフラミニヌスのもとに押し寄せ、手を取り、花輪や紐を投げかけて、彼はもみくちゃにされかけたという。
ギリシアの人々は、フラミニヌスを「救い主」と呼んだ。エウボイア島のカルキスでは、彼をたたえる祭りと神官が置かれ、その祭りはプルタルコスの時代、すなわち3世紀近くのちまで続いていた。ギリシアでは、彼の横顔を刻んだ金貨も作られた。生きているうちに肖像が貨幣に刻まれたローマ人は、それまでほとんどいなかった。

フラミニヌスは、ギリシアの政治にも深く関わり続けた。紀元前195年には、スパルタを支配していた僭主ナビスと戦い、ナビスが奪っていたアルゴスを取り戻させた。だがスパルタそのものは滅ぼさず、ナビスを残した。どの国も強くなりすぎないように、ギリシアの力の釣り合いを保とうとしたのだと考えられている。紀元前194年、ローマ軍はギリシアから完全に引き揚げた。ローマで開かれた3日にわたる凱旋式には、思いがけない一団が加わった。かつてハンニバルとの戦いで捕虜となり、奴隷としてギリシアに売られていたローマ兵たちである。ギリシアの人々は、彼らを買い戻してフラミニヌスに贈り、その数は千人を超えたという。彼らは頭を剃り、解放された奴隷のしるしの帽子をかぶって、将軍の戦車の後ろを歩いた。
しかし、ギリシアの平穏は長く続かなかった。紀元前192年、ローマのやり方に不満を抱いたギリシアのアイトリア同盟に招かれて、シリアのセレウコス朝の王アンティオコス3世(大王)がギリシアに上陸した。フラミニヌスは外交の使者としてギリシアの都市を回り、ローマの側に引き留めるのに奔走した。アンティオコスはローマ軍に敗れて撤退し、紀元前190年、小アジアのマグネシアで決定的な敗北を喫した(マグネシアの戦い)。紀元前189年、フラミニヌスはローマの監察官に就いた。

紀元前183年ごろ、フラミニヌスは使節として小アジアのビテュニアの王のもとを訪れた。そこには、祖国を追われたハンニバルが身を寄せていた。フラミニヌスの来訪を受け、王がハンニバルを引き渡そうとしていることを知ったハンニバルは、毒を飲んで命を絶った(ハンニバルの死)。この一件は、ローマでも非難を浴びた。プルタルコスは、年老いて翼も尾も失った鳥のようになった敵を、名誉欲から追いつめて死なせたと人々が責めた、と書き、一方で、元老院の命令に従っただけだという見方も紹介している。フラミニヌスは紀元前174年ごろに亡くなった。
プルタルコスは『対比列伝』(プルタルコス『対比列伝』)の中で、フラミニヌスを、アカイア同盟の将軍フィロポイメンと組み合わせて描いた。フィロポイメンは、ギリシアの自由を、ギリシア人として自らの手で守ろうとした最後の人と呼ばれた。フラミニヌスは、その自由を、ローマ人として外から与えた人だった。与えられた自由は、与えた者の意向に縛られる。フラミニヌスの死から30年たたない紀元前146年、ローマの軍はコリントスを焼き払い(コリントス破壊)、ギリシアはローマの支配のもとに置かれた。かつて自由の宣言が響いた町が、灰になったのである。
フラミニヌスは、心からギリシアを愛し、ギリシア人の自由を願っていたのか。それとも、自由という言葉で、ローマに従う友人を作ろうとしたのか。おそらく、その両方だったのだろう。ギリシアの文化をたたえるローマの人々と、ローマの力に頼りつつその支配を恐れるギリシアの人々の、長く入り組んだ関係は、この一人の将軍から始まった。