ハンニバルのアルプス越え
概要
象を連れてアルプスを越え、誰も予期しなかった北からイタリアに入った。越えた峠は今も特定されていない。
場所
45.10°N 6.90°E · フランス/イタリア国境(ハンニバルが越えた峠は特定されていない)
関わった人(1)
ハンニバル・バルカBC247年–BC183年(一説にBC181年) · カルタゴ側 · 総指揮本文
紀元前219年、カルタゴの将軍ハンニバル・バルカは、ヒスパニア(いまのスペイン)の東岸にあるローマの友好都市サグントゥムを包囲して落とした(サグントゥム攻囲)。ローマはカルタゴに宣戦し、第二次ポエニ戦争が始まった。20年あまり前の第一次ポエニ戦争で、カルタゴはシチリアを失い、海の覇権もローマに奪われていた。地中海はローマの艦隊が押さえている。ヒスパニアからイタリアへ軍を送るには、陸を行くしかなかった。
ローマは、戦場はヒスパニアとアフリカになると考えていた。執政官の一人はヒスパニアへ、もう一人はアフリカへ渡る準備をしていた。ハンニバルの考えは逆だった。イタリアに乗り込み、ローマに服従させられていたイタリアの諸都市を離反させれば、ローマの力の源を断てる。

紀元前218年の春、ハンニバルは新カルタゴ(いまのカルタヘナ)を出発した。ピレネー山脈を越え、ガリア南部を進んで、夏の終わりにローヌ川に達した。対岸には敵対する部族が待ち構えていた。ハンニバルは別働隊を上流で渡らせて背後を突かせ、本隊を渡した。象は、土をかぶせて地面に見せかけた大きな筏に乗せて運んだとされる。水に驚いて暴れた象もいたが、ほとんどが向こう岸に渡ったとポリュビオスは書く。
ちょうどそのころ、ヒスパニアへ向かう途中のローマの執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオが、ローヌ川の河口近くのマッシリア(いまのマルセイユ)に上陸していた。カルタゴ軍がローヌを渡ったと知って追ったが、すでに3日遅れていた。スキピオは軍の大半を兄に預けてヒスパニアへ送り、自分は北イタリアに戻ってハンニバルを待ち受けることにした。

アルプス越えは、秋の終わりに行われた。ギリシア人の歴史家ポリュビオスは、山を越えるのに15日かかったと書く。頂の近くではすでに雪が積もっていた。山の部族は、狭い道を進む行列に崖の上から岩を落とし、荷を運ぶ馬や兵士が谷へ転げ落ちた。下りでは、雪の下の古い氷に足を取られ、人も馬も滑り落ちた。崖崩れで道がふさがった場所では、兵たちが岩を削って道を作り直した。ローマの歴史家リウィウスは、大きな岩を火で熱し、酢をかけて砕いたと書くが、ポリュビオスにはこの話は無く、後から付け加えられた話ではないかと疑う研究者もいる。
ポリュビオスによれば、ヒスパニアを発ったときの兵力は歩兵9万、騎兵1万2000だった。ピレネーを越えた後、守備隊を残したり脱落者が出たりして減り、イタリア側に下りたときには歩兵2万、騎兵6000になっていた。この到着時の数字は、ハンニバル自身が南イタリアに残させた碑文から取ったとポリュビオスは述べている。減った兵の多くは、戦闘ではなく、行軍の途中の脱落や、寒さと崖、山の部族の襲撃で失われた。37頭いたとされる象の多くも、その冬までに死んだ。翌年まで生き残ったのは、ハンニバルが乗った1頭だけだったと伝えられる。
ポリュビオスは、峠の頂に着いたハンニバルが、眼下に広がるポー川の平野を兵たちに指し示し、あそこがイタリアだ、ローマの城壁はもう目の前にある、と励ましたと書いている。
疲れきった軍だったが、ハンニバルはすぐに動いた。ポー川の流域のガリア人の諸部族は、ローマに土地を奪われていたため、多くがカルタゴ側に加わった。ティキヌス川のほとりの騎兵戦でスキピオを負傷させ(父を救ったのは17歳の息子、のちの大スキピオだったと伝えられる)、12月にはトレビアの戦いでローマ軍を大きく破った。翌年のトラシメヌス湖の戦い、紀元前216年のカンナエの戦いと、ハンニバルは勝ち続ける。

だが、イタリアの諸都市の多くはローマから離れなかった。ハンニバルはイタリアで15年あまり戦い続けたが、ローマを落とすことはできず、本国を守るためにアフリカへ呼び戻された。アルプスを越えた大胆さが、最後に勝利を約束したわけではなかった。
どの峠を越えたのかは、今も特定されていない。ポリュビオスは自ら道をたどったと書いているが、地名を記していないため、モン・スニ、プチ・サン・ベルナール、クラピエ峠、トラヴェルセット峠など、候補は十を超える。19世紀から論争が続き、ナポレオンも関心を寄せた。2016年には、トラヴェルセット峠の近くの湿地の土の中から、紀元前200年ごろのものとされる、大量の馬の糞が積もった層を見つけたという研究が発表されたが、これで決着したとは言えない。

この年表でも、峠の位置には幅を持たせてある。象を連れてアルプスを越えたという場面は、その後も絵画や物語で繰り返し描かれ、不可能を可能にした行軍の代名詞になった。