ハミルカル・バルカ
概要
第一次ポエニ戦争の最後の6年、シチリアの山で負けなかった。傭兵の反乱を鎮め、スペインへ渡って新しいカルタゴを作った。9歳の息子ハンニバルを祭壇の前で誓わせて、連れて行った。川で溺れて死んだ。「バルカ」は雷。
所属
カルタゴ関わったできごと(2)
第一次ポエニ戦争BC264年 · 最後の6年を戦った傭兵戦争BC241年 · 鎮圧本文
ハミルカル・バルカは、紀元前275年頃に生まれたカルタゴの将軍である。「バルカ」はフェニキア語で雷や稲妻を意味する言葉に由来するとされ、あだ名として付いた。その家系は、のちにバルカ家と呼ばれる。生まれや若い頃のことは分かっていない。

紀元前264年、シチリア島をめぐって、カルタゴとローマが争う第一次ポエニ戦争が始まった。18年目の紀元前247年、ハミルカルはシチリアのカルタゴ軍の指揮を任された。このときカルタゴが島に残していたのは、西の端の二つの港町だけだった。
ハミルカルは、ローマ軍が押さえるパノルモス(いまのパレルモ)の近くの山、ヘイルクテに陣を構えた。山の上から絶えずローマ軍を襲い、船でイタリアの海岸を荒らし、3年近く持ちこたえた。紀元前244年頃には島の西のエリュクス山に移り、山頂と麓の両方にローマ軍がいる中で、さらに戦いを続けた。陸の戦いでは、彼は最後まで負けなかった。
勝負を決めたのは海だった。紀元前241年、ローマが市民の献金で新たに作った艦隊が、アエガテス諸島の沖でカルタゴの補給艦隊を破った(アエガテス諸島の海戦)。補給を断たれたシチリアの軍を救う手立てはなくなり、カルタゴ政府はハミルカルに講和を任せた。彼は、兵が武器を持ったままシチリアを去ることを条件に認めさせた。カルタゴはシチリアを失い、重い賠償金を負った。
本国に戻った傭兵たちは、未払いの給料をめぐって反乱を起こし、北アフリカの諸都市や住民も加わって、カルタゴの存亡を脅かした(傭兵戦争)。ハミルカルは、政敵だった大地主派のハンノとともに鎮圧にあたり、3年あまりの戦いで反乱軍を滅ぼした。この混乱のさなか、ローマはサルデーニャとコルシカを奪い、カルタゴは抗議もできなかった。
紀元前237年、ハミルカルは軍を率いてイベリア半島へ渡った。失った島々に代わる富と兵の供給地を、半島の南部に求めたのである。出発の前、9歳の息子ハンニバル・バルカが連れて行ってほしいとせがんだ。ハミルカルは犠牲を捧げる祭壇の前に息子を立たせ、決してローマの友にならないと誓わせてから連れて行った。この話は、ギリシアの歴史家ポリュビオスが、のちにハンニバル自身がシリアの王アンティオコス3世に語った言葉として伝えている。
ハミルカルはフェニキア人の古い港ガデス(いまのカディス)に上陸し、9年近くかけて、半島の南部と東部の部族を戦いと外交で従わせていった。シエラ・モレナの銀山を押さえ、その銀で兵を雇い、カルタゴへの賠償金も払った。新たな拠点としてアクラ・レウケ(白い岬)を築いた。軍は国家の軍であると同時に、バルカ家の私兵の性格を帯びていった。

紀元前229年から228年の冬、ハミルカルはヘリケという町を包囲中に、現地の部族に不意を突かれた。古代の記録によれば、彼は息子たちを逃がすために敵を引きつけて馬で川を渡ろうとし、溺れて死んだ。40代の後半だったとみられる。
軍は娘婿のハスドルバルを後継者に選んだ。ハスドルバルは外交で支配を広げ、新しい都カルタゴ・ノウァ(いまのカルタヘナ)を築いたが、紀元前221年に暗殺された。兵たちが次に選んだのが、26歳のハンニバルだった。ローマの歴史家リウィウスは、古参の兵たちは若いハンニバルの顔つきや眼差しに、若き日のハミルカルが戻ってきたのを見たと書いている。

ハミルカルの三人の息子、ハンニバル、ハスドルバル・バルカ、マゴは、いずれもローマとの次の戦争(第二次ポエニ戦争)で軍を率いた。ローマ人は、ハミルカルが息子たちをライオンの子として、ローマを滅ぼすために育てたと考えた。スペインの都市バルセロナの名を、バルカ家に結びつける言い伝えもあるが、根拠はない。