アグリゲントゥムの攻囲
概要
第一次ポエニ戦争の最初の大きな戦い。ローマが7か月囲み、カルタゴの援軍を破って街を取り、2万5000人を奴隷に売った。シチリアの街々はそれを見てローマを恐れた。ローマは「海で勝たなければ」と知って、翌年、拾ったカルタゴの船を真似て100隻を造った。
場所
37.31°N 13.58°E · イタリア・シチリア
本文
紀元前264年、シチリア島の北東の端の町メッサナで、町を乗っ取っていたイタリア出身の傭兵たちが、ローマに助けを求めた。南の大きなギリシア人の町シラクサの王ヒエロンに攻められていたからである。ローマはこれに応えて初めて海を渡り、島の西半分を押さえていたカルタゴと衝突する。こうして第一次ポエニ戦争が始まった。翌年、ヒエロンはローマと和を結び、ローマの側についた。
カルタゴは、島の南岸の町アグリゲントゥムを拠点に選んだ。ギリシア人はこの町をアクラガスと呼んだ。紀元前6世紀に建てられた町で、紀元前5世紀には地中海でも指折りの豊かな町として栄え、詩人ピンダロスは「人の住む町のうちで最も美しい」と歌っている。しかし紀元前406年にカルタゴに攻め落とされて焼かれ、その後は往時の勢いを取り戻せずにいた。カルタゴはここに兵と物資を集め、ギスコの子ハンニバルを守将に置いた。のちにアルプスを越えるハンニバル・バルカとは別の人物である。
紀元前262年の初夏、ローマの二人の執政官が率いる軍が町に迫った。歴史家ポリュビオスによれば、ローマ軍は町の周りに二重の塹壕と土塁をめぐらせた。内側は町から打って出る敵に、外側は外から来る援軍に備えるためである。町には兵のほかに大勢の市民が逃げ込んでおり、囲まれて数か月が過ぎると、食糧が尽き始めた。
守将ハンニバルの求めに応じて、カルタゴは本国から援軍を送る。指揮をとったのはハンノで、5万の歩兵と騎兵、そして数十頭の戦象を連れていたとされる。ハンノはローマの補給の拠点を奪い、ローマ軍を逆に取り囲んだ。囲む側が囲まれ、町の中のカルタゴ軍とローマ軍、外のカルタゴ軍の三者が、互いに飢えに耐える睨み合いが二か月ほど続いた。ローマ軍の陣には病も広がっていたが、同盟者となったヒエロンが細々と食糧を送り続けた。
町の飢えが限界に近づき、ハンノはついに決戦に出た。ローマ軍は、ハンノの軍の前に出たヌミディアの騎兵をおびき出して疲れさせ、そのうえで本隊を押し破る。戦象は混乱し、多くがローマの手に落ちた。ハンノの軍は崩れて退いた。
その夜、町の中のハンニバルは、ローマ軍が勝利に気を緩めた隙を突き、傭兵たちを連れて包囲の線を抜け出した。囲みはおよそ7か月に及んでいた。守る者のいなくなった町に、翌朝ローマ軍がなだれ込む。町は略奪され、住民2万5千人あまりが奴隷として売られたとポリュビオスは記している。
この扱いは、シチリアの町々に強い印象を残した。ローマは味方につけば守ってくれるが、敵に回れば容赦しない。内陸の町の多くはローマの側に移った。だが海辺の町は事情が違った。カルタゴの艦隊が海を押さえている限り、ローマが陸でいくら勝っても、海辺の町を守ることも、カルタゴの補給を断つこともできない。アグリゲントゥムでの勝利は、ローマにそのことを思い知らせた。
ポリュビオスによれば、アグリゲントゥムを落としたあと、ローマはシチリアからカルタゴを残らず追い出すことを目標に定め、そのために艦隊を持つことを決めた。手本にしたのは、座礁して手に入れたカルタゴの五段櫂船だったという。ローマは60日ほどで100隻の五段櫂船を造り上げ、船ができるまでの間、漕ぎ手たちに陸の上の台で櫂を漕ぐ稽古をさせたと伝えられる。敵の船に橋を架けて乗り込む仕掛けも工夫され、紀元前260年、ローマは初めての大きな海戦に勝った(ミュラエの海戦)。陸の国ローマが海の国カルタゴに挑む戦いは、ここから紀元前241年まで続くことになる。
アグリゲントゥムはその後もカルタゴとローマの間で奪い合われ、第二次ポエニ戦争でも再び攻め落とされる。それでも町は生き延び、いまのアグリジェントの郊外には、紀元前5世紀の神殿の列が残る。なかでもコンコルディア神殿と呼ばれる神殿は、ギリシアの神殿として最も保存のよいものの一つで、ローマ軍が町を囲んだときにもそこに立っていた。「神殿の谷」と呼ばれるこの一帯は、1997年に世界遺産に登録された。